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小説「走る、繋がる、生きる」第1話

【歩子@東京】

「歩子(あゆこ)、今日もマラソン?よく続くね。」
スポーツバッグを持って、いそいそと退社する歩子の背中に、同僚の麻友が声を掛けた。

“マラソンじゃなく、皇居の周りを走るだけだけどね。”、という言葉を飲み込み、笑顔で振り向き、「まあね。」と答えた。

日本人は、走る事が、全部、マラソンという言葉になるのは何でだろう?
マラソンとは、42.195キロの距離のレースのことだけを指すのに。
16歳まで、親の仕事で海外と日本を行ったり来たりしていた歩子は所謂帰国子女だ。

「今度、ランチでもしよう!」

話を上手に切り上げるに最適な言葉を残し、笑顔でバイバイと手を振った。

会社から、梅の湯まで急ぎ足で15分。引き戸をガラリと開け、番台に回数券を千切って渡すと、すっかり顔見知りになった番台のおばちゃんに、「頑張るね〜。」と声を掛けられた。
ランニングウエアに着替えながら、おばちゃんといつもの会話する。
「はい、やりたいことがあるんで。」
「それは前も聞いたわよ。で、何なのよ、やりたいことって。どうせ、マラソン完走でしょ。でも、東京マラソンの当選確率はすごいわよ。どうせ当たらないんだと思って、折角、練習しているんだから、別のマラソン大会も申し込んだ方が良いわよ。」

マラソンブームになってから、ランナーと日々会話をしているおばちゃんは、いっぱしのランニング通だ。
歩子にも、「沢山、走った後は、すぐに湯船に飛び込むんじゃなくって、冷水シャワーで脚を冷やしてからよ。」なんて、アドバイスまでくれる。

上り口に腰掛け、少しくたびれ始めたランニングシューズの靴紐を二重巻きに結ぶ。これも、おばちゃんに教わった、ランナーの基本動作だ。
「あんた、そんな結び方じゃ、走っているうちに外れちゃうよ。」
そう言って、番台からわざわざ出てき、教えてくれた。
あれは歩子が皇居外苑を走り始めて、1週間が過ぎた頃だから、去年の11月半ば過ぎか。

「行ってきます!」 
元気に飛び出した。皇居までジョグで10分弱。

3月末の東京は寒くもなく、暑くもなく、走りやすい。夕方5時半という時間帯は、まだ冬の色合いを残し、空はうっすらと暗くなりかけている。しかし、一ヶ月前に比べたら、格段明るい。日に日に、夜の勢力が弱まり、太陽が長居をしようとしているのが感じられる。

走り始めて分かったのは、自分は自然と共に生きているということだ。

こんな大都会に住んでいても、そこにはちゃんと自然が存在している。
寒い日があり、もっと寒い日がきて、頬が凍りつきそうに感じる。
そんな時に、突風が吹き、思わず、目を瞑る。
風が目に染みて、ちょっと涙目になったまま、脚を前に出す。踏み込む度、大地を感じる。

去年の11月から走り始めた歩子にとって、冬という季節は、初心者ランナーの気持ちを削ぐ要素が沢山あった。

だけど、続いた。やりたいことがあるから。
歯を食いしばるという感覚を初めて持った。欧米社会では、褒めて育てるのが一般的だったし、日本に戻っても、ゆとり教育。そんな経験をさせられる機会はなかった。
いや、違う。単に、歯を食いしばってでも、やり遂げたい事がなかっただけだ。

歩子は、1周5キロの皇居の周りを走りながら、自問自答する。

2周目に入ると、心臓の音が、ちょっとづつ近づいてくるのを感じる。
ドキドキドキドキ、脚の歩調に合わせるようなリズム。

苦しいような心地良いような不思議な感覚。堀の水鳥が、一斉に飛び立った。
空はもう真っ暗だ。

心地良い感覚が徐々に薄らぎ、苦しさが増してきた。止まりたい、でも、止まりたくない。もうちょっと、もうちょっとだけ、頑張ろう。頑張れるかな、私の心臓。右手の平で、胸をそっと抑える。
心臓の声を聞き、もう一踏ん張り、脚を強く蹴った。

後、100メートル、荒い呼吸が耳に響く。

自分で決めたゴール地点まで全力疾走する。

やった、ゴール!心の中で叫ぶ。
ゼイゼイと荒い息を吐きながら、道路傍に移動し、呼吸が落ち着くまでぐるぐると歩いた。

飛び跳ねていた心臓が、ゆっくりと、しかし確実に落ち着いてくるのを感じると、なんとも言えない幸福感に包まれる。

後、8ヶ月。十分なのか、足りないのかランニング初心者の歩子には分からない。
でも、走り始めた3ヶ月前より、ずっと走れる様になっているのは確かだ。
決して、運動が得意でも、好きでもなかった自分でも、徐々に、着実に長く走れる様になる。諦めない限り。

後、8ヶ月。
これから、春夏と二つの季節が待っている。夏を上手に乗り越える必要がある。

そして、秋。その日を想像すると疼く様な感覚に襲われる。
待ち遠しい様な、怖じ気づいている様な、何とも言えない感覚。

びびるな、歩子。私は一人じゃない。

高鳴る気持ちを抑える様に、歩子はそっと胸に手をやる。

毎年11月の最初の日曜日。NYCマラソンは開催される。

歩子の“やりたいこと”を知るのは、まだ、歩子しか知らない。

(続く)

小説「走る、繋ぐ、生きる」第2話 

https://note.com/kurorisu/n/n04d9fec02c53

小説「走る、繋ぐ、生きる」第3話

https://note.com/kurorisu/n/n4d583c56c92a

小説「走る、繋ぐ、生きる」第4話

https://note.com/kurorisu/n/naa142aeff657

小説「走る、繋ぐ、生きる」第5話

https://note.com/kurorisu/n/n79adef43d3de

小説「走る、繋ぐ、生きる」第6話

https://note.com/kurorisu/n/nfd36be8c7284

小説「走る、繋ぐ、生きる」第7話

https://note.com/kurorisu/n/nb4104b5e490e

小説「走る、繋ぐ、生きる」第8話

https://note.com/kurorisu/n/n5e67f9b105b4

小説「走る、繋ぐ、生きる」第9話

https://note.com/kurorisu/n/n2fdacf51d920

小説「走る、繋ぐ、生きる」第10話

https://note.com/kurorisu/n/n6100f580f9c1

小説「走る、繋ぐ、生きる」第11話

https://note.com/kurorisu/n/n7708bc3cb902

小説「走る、繋ぐ、生きる」第12話

https://note.com/kurorisu/n/nb3a03701e654

小説「走る、繋ぐ、生きる」第13話

https://note.com/kurorisu/n/n66004ceedda3

小説「走る、繋ぐ、生きる」第14話(最終話)

https://note.com/kurorisu/n/n7f0fd7293a96


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