違う、だけど、一緒。それがランナー。
4月初めから、「ランナーの話」と称して、自分の身近なランナーを主人公に、10人のランナーの話を私、黒リス目線で書いてみた。
最初からこの人の話を書こうと決めていたわけでもなく(何人かの候補はいたけど)、この人を書いたら、次はこの人を書きたくなった。まるで、それはバトンリレーみたいにね。
自分は走り始めた時から、ずっと不思議に思っていた。
なんで、みんな、速い方が上で、遅い方が下って意識なの?と。
トップ何パーセントとか、入賞とか、それは確かにスゴい事かもしれないけど、でも、別にそこに上下関係なくない?と。
学校でも会社でも、十分、上下関係の社会でウンザリなのに、ここでもそれを意識させられるなんて、なんて不自由なんだ。あー、ヤダヤダ。
ぐらい、アンチタイム派であった。だけど、レースに自分が出るようになり、レースを観戦・応援する様になり、気づいたことがある。
スピードって、美しい、と。
トップランナー達の走りは、美しいのだ。美しいに、理由なんてないよね。見た瞬間、心にドキュンってくる感覚だから。気がつけば、自分も美しい仲間になりたくなっていた。そして、そのスピードを出す世界は、一度、味わったら、止められない程、中毒性の高い快楽でもあった。
そして、これが曲者で、今度は、自分が遅くなるのに耐えられない気持ちが沸き起こるのだ。だからなのか、多くのスピードランナーが、ある年齢で、レースから卒業してしまう。「だって、速く走れないと面白くないもんね。」と、言っていた元超絶シリアスランナーの女性もいた。
自分にもその危機が訪れた時、どう対処しようと考えていた。そんな時に出会ったのが、ウルトラトレイルという存在だ。こんな走りの世界もあるのね、と新鮮な気持ちになった。だが、ここはここで、どんどん若い人たちが参加する様になると、長い距離や過酷度の高い中でのスピードを競う競技になっていき、ここもやはり、いつか自分に幻滅しそうな気がした。
結局、自分は、いつも迷っていた。どんな風なランニング人生を歩めばいいのか、と。だから、周りのランナー達の生き様ならぬ走り様に興味を持ったのかもしれない。そこで知ったのは、どんなランナーもいつも順風満帆ではなく、愚かな程、走ることに夢中になる時期があったり、嫉妬、葛藤、挫折、もがいたり、諦めたり、だけど、また、頑張ろうって思ったりなんてことが、多かれ少なかれあり、”なーんだ、結局、みんな、ランナーって一緒じゃん。”と結論に達した。
だから、今回の”ランナーの話”を書いた。きっと、ランナーなら、誰が主人公でも、その中に、自分の欠片を見つけるだろうから。
先輩ランナーに自分の未来を見て、後輩ランナーに自分の歴史を見る。
そして、自分は今を走るのだ。