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小説「走る、繋ぐ、生きる」第2話

【John @ Brooklyn, NY】

その日、ジョンは朝6時に目が覚めた。
いつもなら、母親のメアリーから起こされるまで、夢の中だと言うのに。
それだけ、興奮していると言う事だ。
なぜなら、今日は、待ちに待ったNYCマラソン当日だから。

ジョンは12歳になったばかりの筋肉がまだついていないひょろっとした少年だ。
一見、気弱そうにも見えるが、それは優しすぎる性格の現れとも言える。

彼は、すっかり目は覚めているが、ベッドから出ようかどうか迷っていた。
流石に、朝6時から、9時過ぎスタートのNYCマラソンの応援準備は早すぎるだろう。
だが、耳を澄ますと、キッチンから音が聞こえる。そして、リビングからもTVの音が漏れている。
なーんだ、パパもママも興奮して眠れないんだ。
そう思うと、無性におかしくなり、ジョンは、一人毛布の中でクスクスと笑った。

ベッドから跳ね起き、洋服を着る。コットンのロングTの上に、チェックのシャツを重ね着する。毎年、NYCマラソンの日は冷え込む。朝は体感温度が0度に近い。応援は長時間に及ぶから、防寒は必須。

これに年末に買ってもらったノースフェイスのダウンを着て、耳が隠れるニット帽を被って・・・と、ジョンは、昨日の夜に何度もあーでもない、こーでもないと検討に検討を重ね、用意したものを順番に着ていった。

全部、着込んだ状態で、カウベルを手に持ち、キッチンへ向かった。

「パパ、ママ、グッドモーニング!」

「グッドモーニング、ジョン。おいおい、そのカッコ、少し早すぎないか?応援までまだ3時間以上もあるぞ。ダウンぐらい脱げよ、応援する前に、茹で蛸になっちまうぞ。」

「グッドモーニング、ジョン。あらまぁ、やる気満々ね。でも、ちょっと待って、何か忘れているんじゃない?今年は、ランナーにカットオレンジを配るって言ってなかったかしら? ママ、昨日、ホールフーズに行って、オレンジを沢山買ってきたのよ。さぁ、ダウンも帽子も脱いで、ママがカットしたオレンジを、そのタッパーに入れるのを手伝ってちょうだい。」

そうだった、今年はカットオレンジを配るって決めていたんだ。去年、応援が終わった夜、家族でテイクアウトのチャイニーズを食べながら、ジョンが提案したのだった。「来年のNYCマラソンでは、オレンジを配る。」と。

ジョンの父親ジムと母親メアリーは、ジョンが7歳になった頃、この場所、ブルックリンのクリントンヒル地区、ラファイエットアヴェニュー沿いに家を買った。家と行っても、2LDKのアパートの3階なのだが、NYCで一軒家を持つ家族の方が珍しい。

この辺りは、下町の雰囲気があり、治安的にもブルックリンの中では比較的安全な場所だ。
自分達の通勤時間、ジョンが通う学校のレベル等、あらゆる事を考慮(懐具合が何より重要だが。)し、購入に踏み切った物件だが、一つだけ予想外だったのは、この場所が、NYCマラソンのコースに面していたという点だった。
つまり二人とも、NY生まれだが、NYCマラソンには全く興味がなかったのだ。

5年前のこの日、ジョン達家族は、いつも通り、ゆっくりとした休日の朝を迎えていた。そんな時、いきなり、外からウォーーという地鳴りの様な歓声と共に、ガランガランという音が響き渡った。何事かと思い、一家で、3階の窓を開けると、TVカメラマンを乗せた車やバイクが通り過ぎ、その後ろを、先頭ランナー集団が、駆け抜けて行った。そのスピードと迫力に、ジョン達一家は度肝を抜かれた。

「あのスピードで、えっと、マラソンって何マイルだ?確か、26マイル(42キロ)ぐらいだったっけ。まぁ、兎に角、とてつもない距離を走るのか。信じられん。」
「みんな、細いわね〜。でも、細いだけじゃなくって、なんていうの、しなやかね。ちゃんと筋肉がついて。」

ジョンやメアリーがそれぞれ思いつくままの言葉を口に出し、感嘆している間、ジョンは、ただただ目を丸くして、通り過ぎて行くランナー達を見つめていた。

すごい、すごいよ。
何だか、分からないけど、心臓がバクバクするよ。

ジョンはいてもたってもいられなくなり、ジョンとメアリーに、自分も外で応援したいと言った。

最初は、寒いから嫌だとか言っていたメアリーも、応援し始めると、すぐに夢中になった。
様々な人種が、それぞれのペースで、みんな前を向き、同じ場所を目指して走る姿を見ていると、何とも言えない感動が胸に沸き起こった。

その日以来、毎年NYCマラソンを応援するのが、ジョン家族の一大イベントになった。

そして、今年で5年目。ジョンは、いつか自分も応援する側から応援される側になりたいと思い始めていた。
僕も、絶対、NYCマラソンを走る。そんな気持ちがジョンの中に自然と生まれていた。

後、何年か先の僕はどんなランナーになっているんだろう。
やっぱり、速いランナーはかっこいいよな。ビュンと、一瞬で目の前を過ぎ去るランナーの耳には、僕の応援する声はきっと背中で聞こえるのかな。

トップランナー達を大声で応援しながら、そんなことを考えていると、隣にいるジムが、ジョンの肩をポンポンと優しくたたきながら、「いつか、俺たちはここをかっこよく走り抜けるジョンを応援するのかな?」と呟いた。

パパ、何で、僕が考えていることが分かったのだろう?

去年までは、一緒に並んで応援する父親の手が、ジョンの頭をポンポンと優しく叩いていたことを思い出す。
37歳の父親が縮むわけがないから、ジョンがこの1年でかなり背が伸びたことになる。ジョンは、急に、去年までの自分がものすごく子供に感じられた。

こうやって、僕はちょっとづつ大人になっていくのかな。

それは、早く訪れて欲しいような、欲しくないような、むず痒い気持ちだ。

「ママ、もっと、僕にもカットオレンジちょうだい。」

ジョンは衝動的に、メアリーに甘えたくなった。そんな自分は、やっぱりまだ子供なんだと安心したり、がっかりしたりする。最近のジョンは、自分でも自分の心を持て余し気味だ。

「お、なんかランナーが大声で叫びながらやってくるぞ。」
ジムの声に、ジョンもつま先立ちになって、声のする方向を見た。

「ブラインドランナー カミング!!(盲人ランナーが通ります!)」

二人の若い男性ランナーが、前を走るランナー達に向かって、脇に避ける様に、大声で叫んでいる。その二人の男性ランナーの先導を受け、半歩後ろを走っているのは、女性ランナーだ。歳は30歳前後、ポニーテールにしているアッシュブロンドの髪が、タテガミの様に風にたなびいている。
濃い目のサングラスの奥の瞳は、多分、ほぼ何も見えていない。

その姿は、二人の屈強なナイトに守護された、プリンセスに見える。
いや、守護されているだけじゃなく、一緒に戦うプリンセスだ。強く、気高い。

「ワァオ!彼女、ブラインドランナーなんだ。それなのに、あのスピードは、クレージーだぜ。」

周りがざわつく。

「あのスピードなら、3時間30分切りかな。いや、さっき通ったマイル8分のペーサーグループより速そうだぜ。って、事は、3時間20分切りかよ。オーマイガー!」

ブルックリン地元民達は、彼女の耳に応援の声が届く様に、大声を出し、拍手をし、カウベルを鳴らしまくった。
それは大きなうねりとなって、そこにいる応援する側の心も熱くした。

そして、彼等の姿が見えなくなった時、一瞬、皆、静まり返った。

彼女たちの走る姿は、神々しいまでに美しく、その圧倒的なオーラに人々は敬虔な気持ちにさせられたのだ。

ジョンもその中の一人だった。
ただ、ジョンの目を釘付けにしたのは、ブラインドランナーの女性ではなく、両脇で彼女を守りながら走るペーサー達だった。

かっこいい。すごく、かっこいい。

「どうした、ジョン、大丈夫か?」

心配そうにジムとメアリーが、ジョンの顔を覗き込んでいた。
「どこか痛いの?」メアリーが、袖口でジョンの頬を拭った。
どうやら、涙が出ていたらしい。何で涙が出たのか分からないけど。

ジョンは、ううん、と照れ臭そうに首を振り、少し、考えてから、言った。

「パパ、ママ、僕、決めた。僕、ブラインドランナー(盲人ランナー)のペーサーになりたい。あの二人のお兄さん達みたいな伴走ランナーになりたい。」と。

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