この想いは蓋をする。人と分かり合いたいなんて出来はしないから。
改めて思うこと。人とはわかりあえないということだ。歩み寄ることは出来たにせよ。
私は頭の中は魑魅魍魎のようなふてぶてしく生々しく得体の知れないものに占拠されていた。
考えても考えてもどうやってもわからない。答えが見つからない。あぁ、答えを見つけようとするからなにも見えなくなるのか。正しさとは何で悪はなんなのだ。
答えを知ろうとたくさん本を読んだ。本を読めばなにかが見つかるやもしれないと思ったからだ。でも読んでも答えは当然のごとくそこにはなくヒントを自分なりに得て軸としていくしかないのだと気付かされる。
わからないことはひどく不安で孤独だ。真っ暗闇をさらに目隠しして歩いているような感じさえする。特に見つけかけていた答えの先っぽを失くした時は呆然とする。
この想いを誰かと共有したいと激しく思う。でもきっとそれはまた更に迷いこむだけになるのだろう。話してみてよ、話してみても意図の伝わらなさ加減に嫌になる。どう話しても伝わらない。自分の語彙力の無さに、伝え方の下手くそさに。そんなどうでもよいことにさらに打ちのめされる。
わかってほしくて話したのに否定される。理解されない。伝わらない。頷いてほしいのかもしれないし、わかるよ、と言ってほしいのかもしれないし、あなたは悪くないよ、と言われたいのかもしれない。あるいは全部だ。
心のどこかで私のやり方を否定されたっていいって思ってる。でもそれをされるとあからさまに怖くなる。やっぱり私は間違っていてやり方も考え方も間違っていて何もかもが間違っていて、間違っているんだとそう思わされるから。
誰かに悩みを相談したいとき。それは全てを認めて受け入れてほしいとそれ意外ないのだ。ここであなたは間違えたのよ、そう言われるのがとても怖い。から、言ってほしくない。それが私の中の真実で。そんなことに気づいたなら余計誰にも言えるはずがないのだ。
私はもう求めているものがあるから、それ以外答えとして受け入れないと思うからだ。
あなたはよくやってるよ、そう言った人も結果が伴わなければ何をしてるの?と否定側へいく。
私たちは試し試されて生きていくしかないのか。試されて思う結果にならなくとも存在したいし愛されたいと思う。
世の中が非道なのではなくて私自身が非道なのだろう。こう、と定めたもの以外受け入れないのは私だからだ。
想いを吐露してもしそれを掬ってくれる人がいるなら、いるんだろうか?自分で抱えきれないものを誰かが掬ってくれるだろうか?
最後はあなた次第、そう言われるのが目に見えている。もし誰かがわかるよ、そういってくれても明日からの世界はなにも変わらない。変えようとしなければ変わらない。
だから私はここに書いて吐露しているじゃないか、と言われるかも知れなくともこの想いは誰とも共有しない。誰かに伝えない。押し込めて消化するその日まで蓋をして閉じ込めておこう。
間違っていていても正しくてもわからないことはわからないままだからだ。