黒猫レモン の物語
黒猫レモン
ある町に黒猫が住んでいました。黒い毛に黄色い瞳をもつその猫はレモンと名付けられ、人間の家に飼われていました。
ある日の朝早く、レモンは飼い主の家を抜けだして、散歩に出かけました。よく晴れた秋の日に、家にいるのもつまらないと思ったのです。家の裏にある小さな原っぱに足を踏み入れると、昨日降った雨粒が草の上で踊っていました。レモンの黒く光る毛にも、たくさんの雨粒がくっついて、きらきら光りました。レモンはぶるぶると体をゆすって、雨のしずくをはらいました。
「きゃあ!」
突然、大きな声がしました。
驚いてあたりを見回すと、草むらに小さな人形のようなものがうずくまっているのが見えました。レモンは、素早く草に飛びかかると、爪でひょいと“それ”を持ち上げました。
「ここは一体どこですか」
“それ”は言いました。“それ”は、今までに見たことのないものでした。生き物のようですが、動物でも虫でもありません。
「ここはどこかって? 草っ原だよ」
レモンは言いました。ところが “それ”はレモンの言うことには答えずに、言いました。
「ここは暑くてたまらない。もっと冷たくて涼しいところはないかしら」
レモンはそう言われて首をかしげました。この日は、秋晴れで、わりあいに涼しかったからです。しかし“それ”は暑い暑いと、うるさく言います。
そこでレモンはいいことを思いつきました。爪でひょいと“それ”をひっかけると、自分の背中に乗せました。家に戻ると、猫専用の小さなドアから部屋に入りました。
「あら、レモン、もう帰ったの」
飼い主のおかあさんが言いました。おかあさんは卵を焼いたり、パンをトーストしたり、朝食の支度に大忙しです。“それ”に気づく様子はありません。レモンはおかあさんがミルクを取り出そうと冷蔵庫を開けるのを見計らって、ひょいと“それ”を中に放り込みました。
「ここならだいぶ涼しいだろう」
レモンは居間のソファーに寝そべりました。
ところが、また声がしました。
「ここは暗くていやな匂いがするの。ここから出して」
“それ”の声でした。冷蔵庫の中にいるはずなのに“それ”の声がはっきりと聞こえてきました。しかし、おかあさんもおとうさんも子どもたちも、何事もないように、朝ごはんを食べています。その声はレモン以外の誰にも聞こえていないようでした。
レモンは眠気をこらえて起き上がり、おかあさんに近づいて、にゃーん、と鳴きました。
「あら、あなたもご飯?」
おかあさんは、冷蔵庫を開けて、缶詰を取り出しました。そのすきに“それ”はレモンの背中に飛び乗りました。
レモンは廊下へ出ると、ゆっくりと階段を登りました。二階の部屋には大きな窓がありました。レモンは椅子を伝って、窓のサンに飛び乗りました。そして窓を少し開けました。乾いた秋の風がすーっと部屋に入ってきました。
「この家で一番風通しのいいところだ。ボクも暑い夏の日にはよくここで涼んでいるよ」
ところが、“それ”は言いました。
「いいえ、こんなに生あたたかい風では具合が悪くなりそう」
レモンはまた考えました。そして、窓の隙間から、小さなベランダに出て行きました。ベランダの手すりからとなりの家の外階段に飛び移り、高いところまで登ると、今度は屋根に飛び移りました。レモンだけが知っている、屋根に上る秘密のルートです。屋根のてっぺんまで行くと、ごーっと大風が吹きました。
「どうだい、涼しいだろう」
しかし、“それ”は首をたてに振りません。
仕方ないので、レモンは秘密のルートを伝って一階に降り、表玄関から道路に出ました。通り過ぎる車を横目に見ながら、コンクリートの道を歩いて行きました。そこは排気ガスや人間の匂いでいっぱいでした。時折、樹木の生い茂る大きな庭のある家を見かけました。とても涼しそうでしたが、硬い壁に囲まれて中には入れそうにありません。一日中、歩きましたが、冷たくて涼しい場所は、とうとう見つかりませんでした。
そのうち、あたりはすっかり暗くなりました。町には電灯が光り、灰色の道路を照らしました。レモンは、灰色の世界を歩きながら考えました。“それ”が気に入るような、冷たくて涼しい場所など本当にあるのだろうか。もしあるとしたら、それは途方もなく遠い場所なのではないだろうか。そう思った途端、レモンの足は、それ以上、前に進むことができなくなりました。
突然、電灯が音もなく消えました。あたりは真っ暗になりました。なんの音も聞こえなくなりました。
「ここは冷たくて涼しくて気持ちいい」
“それ”の声が静寂を破って暗闇に響きました。“それ”はレモンの背中から飛び降りると、闇の中を跳ねました。まるで白い光の粒が踊っているようでした。レモンの大きな黄色い瞳は、ただただ、その光景を映す以外、何もしようがありませんでした。
気がつくと“それ”は消えていました。電灯も元通りに道路を照らしていました。
絵とお話:なかひらまい
プロフィール●なかひらまい:作家・画家。ユング心理学研究会理事。多摩美術家協会会員。著作は『スプーの日記』シリーズ3部作(トランスビュー刊)。千年の間、口伝のみで伝わってきた紀国の女王伝説の謎を追ったノンフィクション『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』、毎日新聞大阪本社版に連載された童話『貝がらの森』ほかをスタジオ・エム・オー・ジーより刊行。ハンドメイドの絵本「小さな絵本」や『宙の猫島(そらのねこじま)』などオリジナル作品を随時発表している。
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