制作の日記②3/20

今日はカメラが壊れた。
ここのところカメラで役者たちの写真を撮ることが稽古中の居場所になっていた分、久しぶりの手持ち無沙汰を感じることになった。

高校の頃、制作に似たようなポジションについていたことがある。
その時からずっと、この公演直前期の在り方については悩まされてきた。
制作というのは、もともと稽古中には特に決まったやることが用意されている立場ではない。しかし稽古の初期であれば、役者のセリフ入れやまだ朧げな演出について感想を言うなど、居場所を作りやすかった。それが公演直前期ともなると変わってくる。
役者は基本的にセリフを覚えきっているし、演出もすでに役者と演出による世界が形成されており制作が入り込む余地などなくなる。すると当然の流れとして稽古場所に居場所がなくなる。
勘違いしないでほしいのだが、これは役者や演出が制作を除け者にしようとしているということでは決してない。間違いない。
これは制作という立場の人間が辿らねばならない運命のようなものだと思う。だから制作につくということはそういうことであり、ましてや経験を積んできたのであればそのことは覚悟した上で取り組まなければならない。しかしいくら覚悟していたとはいえ、それが苦しくないということにはならない。いくら予告されていようと、同意していようと虫歯を削るのは痛いのと同じことだ。

苦しさを解消する拠り所となってきたのがカメラだった。
稽古に向かう役者や演出の姿を映し、その生きる姿の美しさ・尊さを最大限に切り取ることができる写真を撮る。これはなかなかに良いものだった。

制作としての仕事がないわけではない。しかし、それは家で一人でもできるようなことが多く、また稽古との繋がりが希薄になりやすい。つながりが希薄になれば再び居場所がなくなる。疎外感に苛まれる。
カメラが壊れ、私は再び疎外感に苛まれることとなった。

さらに悪いことにこのカメラというのは、私の気性である多動性を適度な形で発散させるものとしても機能していたようだった。私は足を捥がれたトカゲのようにもぞもぞと稽古場を忙しなく動き回ることでしかそれを発散できなかった。何をしているわけでもないのに動き回る私は稽古場で相当に目障りな物体だったと思う。

ひとまずカメラのレンズを買い直した。おおよそ1万円ほどの買い物だが、稽古や精神面において明白な支障を来たしている以上、また実益面においても必要なものである以上、金を出し渋っている余裕などなかった。
22日か23日には手元に届きそうだ。


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