研究と個人的社会観
学会が終わった。
今回の研究で取り組んできたテーマは環境保全活動がその地域においてどんな負の側面をもちうるのかということであった。対象とした地域では高齢化が進行しており,環境保全活動を続けることは一部の住民にとっては負担となっていることが調査によってわかった。しかし,同時にこの環境運動というのは地域住民にとってはそれなりの歴史を持つ,地域の行事でもあった。それゆえに,個人の中には負担を理由とした後ろ向きな姿勢と地域の魅力という側面を理由とした辞め難いという気持ちが併存している。そしてそれは個人だけでなく,地域全体においても同様であった。詳細については論文を投稿したのでそれを読んでもらえればいいのだが,この研究は振り返ってみれば自分の社会観や人間観を写したものでもあったと思う。
この研究はもともと,学部時代の卒業論文として執筆しており,今回のものはそれに大幅な解釈の変更と追加の調査を加えたものである。学部時代の研究では記述していなかった要素を複数盛り込んだのだが,その中でも最も大きな意味を持つのは本事例からどのような教訓を得られるのかということであったと思う。
それはすなわち,「成功事例だとされていたものを今一度,問い直し,再検討する必要性がある」というものである。
学会というものは事前に要旨を提出し,学会当日に発表用の資料を持参し,発表を行うという流れで進む。学会の数日前,私は発表用のスライド作りに苦慮していた。当然結論や論理の展開は決まっていたし,結果から導かれる考察も詰めていた。では何に苦慮していたかというと,この発表をどのようにしてまとめるのかということである。この研究はそれなりのデータ量をもち,考察のしがいもある内容であったため,かなり要素を省いた形での発表となった。それでも言いたいことを詰め込んだ資料にしたつもりではあった。
しかし,完成したスライドを見るとどこか味気ない。調査を行い,そこからの考察を導いて,それらしいことを言ったものの,結局のところ,ふんわりとしたまとめ方で終わってしまっていた。その研究を通して,自分は何を世界に訴えたかったのか。それが見えてこなかった。
学術や科学というもののあり方を考えると,個人の感想や思い入れというものを介入させていいものではないと思われる。一方で,何が言いたいのかわからない発表ではただ埋もれてしまう。感想ではなく,論理的に敷衍した形で何か言うことはできないだろうか。
そうした問いの末に導かれたのが先の文言である。
物事は時代によって評価が変わると言うのはよく知られていることであり,例えば「愛のムチ」なんていう言葉が賞賛されたのは高度経済成長の頃の話であり,今であればおそらくパワハラ扱いされてしまう。また,工業を推し進めて発展してきた科学者たちは,今の世界では地球温暖化やさまざまな環境問題を発生させた罪人のように扱われるかもしれないが,その科学者たちはただその時代の要請に合わせて己の使命をまっとうしたに過ぎない(科学者としての倫理から外れ,公害企業に付き従い,公害を否定したようなものもいるが)。
これらは「過去に評価されたものが現代では否定的に扱われる」という事例である。そうであるならば,「現代において評価されているものが未来においては否定的に扱われる」ということも想像に難くない。そして否定的に扱われるということはおそらくその理由がある。否定的に扱われていないのはその理由が見えていないからであると考えることができる。
そうしたことを考えると,今回の研究というのも,見えなかった・見られてこなかった「理由」を掘り出す作業であったということができる。そしてそのアプローチは日本の環境社会学に見られてきた姿勢とつながるのではないかと自己評価している。
さらに一歩,研究から拡張して自分の社会観というところにも思いを巡らせてみる。例えばあるコミュニティ。そこでは見えやすい苦しみというものに視線が向けられるあまり,その影に隠れてしまった苦しみが見落とされてきた。また,ある時には別のコミュニティでそういった苦しみを抱えた人の声を聞くこともあった。そうしたものを生み出してしまう構造に対して怒りを抱くことが多かったように思う。そんなことがたくさんあった。
ただしここで強調しておきたいのは「見えやすい苦しみは放っておいて良い」「成功事例を否定する」という意図はないということである。見えやすい苦しみについてもきちんと対処する必要があるし,成功事例は成功事例として評価していいと思う。一方で,その背後にまで想像力を働かせて,見えない部分を見ようとし,成功事例が文句なしの成功事例といえるのかと疑う姿勢があってもいいのではないかということである。社会全体がそうなることはできないにしても,少なくとも自分はそうでありたいと考えている。見方によっては,逆張りだとか他人のことを否定してばかりのように見えるかもしれないが,そういう捻くれた人間だと思ってくれればいい。
科学者の卵として思想をここまで打ち出すというのは正しい在り方ではないかもしれない。しかし,今回の研究を通じて,自分の社会観というものを再認識することができたように思う。また,今回の研究の奥にある自身のパッションというものはおそらくそこに由来するものであったと思う。そして,こうした点において環境社会学に魅力を感じたのかもしれないと考えると腹に落ちる。