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#8『天才は眠らない〜クルーズトレイン「TOWA(永遠)NI(に)」殺人事件』
■第八章 遺体消失の謎■
星花は、TOWA NIの制御室で、複雑なコードを打ち込みながら深く考え込んでいた。周りでは、警察や技術者たちが慌ただしく動き回っている。
「星花ちゃん、進展はあった?」あかりが心配そうに尋ねた。
星花は画面から目を離さずに答えた。「ええ、少しずつだけど...」
彼女の頭の中では、量子力学の複雑な理論が渦を巻いていた。遺体の消失...それは単なるトリックではない。科学の最先端、いや、それすらも超えた現象だったのだ。
「考えてみて」星花が静かに話し始めた。「私たちの体は、つまるところ量子の集合体なの」
あかりは首を傾げた。「量子?」
「そう、物質を構成する最小単位よ。そして驚くべきことに、その量子のほとんどは...空間なの」
星花はキーボードを叩く手を止め、真剣な表情であかりを見つめた。
「量子力学の観点からすれば、物理的な体というのは、ほとんどが"空"でできているのよ。そして、その量子は...ある条件下では、波としての性質を持つの」
「波?」あかりは混乱した様子だった。
「そう、波。これはシュレーディンガーの波動方程式で表現されるの」星花は画面に複雑な方程式を表示させた。
「iℏ∂Ψ/∂t = ĤΨ」
「この方程式が示すのは、量子の状態が時間とともにどのように変化するかよ。つまり、私たちの体を構成する量子も、この方程式に従って振る舞っているの」
星花の目が輝いた。「鷹山さんは、この理論を極限まで推し進めたの。人間の体を構成する量子を、完全に分解して...」
「デジタルデータに変換した?」あかりが息を呑んだ。
星花はうなずいた。「その通り。量子を分解し、電気的操作によってデジタルデータに落とし込んだ。それが、遺体が消失した理由...いや、正確には、遺体がデジタル空間に転送された理由よ」
村上刑事が会話に割り込んできた。「待ってくれ。そんなことが本当に可能なのか?」
星花は深く息を吸った。「理論上は...可能です。ただし、技術的なハードルは途方もなく高い。でも、鷹山さんのメモを見る限り、彼はその壁を越えたように思えます」
「しかし、それならなぜ彼は死んだように見えたんだ?」刑事が問いかけた。
星花の表情が曇った。「おそらく...転送の過程で何かが起きたのでしょう。意識はデジタル空間に転送されたものの、物理的な体は一時的に機能を停止...そして、完全なデータ化が行われた時に消失したのだと思います」
「では、あの壁をすり抜ける怪しい影は...?」あかりが思い出したように言った。
星花は頷いた。「そう、あれこそが鍵なの。鷹山さんの意識がデジタル空間と現実世界の間を行き来している証拠よ。量子のトンネル効果と似たような現象が起きているんだと思う」
「トンネル効果?」村上刑事が首をかしげた。
「量子力学では、粒子が本来越えられないはずの障壁を通り抜けることがあるの。これをトンネル効果と呼ぶわ。鷹山さんの意識は、同じような原理でデジタル空間と現実世界の壁をすり抜けているのよ」
室内が静まり返った。全員が、その説明の重大さを噛みしめていた。
「でも、それじゃあ...」あかりが小さな声で言った。
「私が聞いた不思議な会話の相手の部屋に鷹山さんが居たって事、鷹山さんは今、生きているの?それとも...」
星花は決意を込めて答えた。「生きているわ。デジタル空間の中で。そして、私たちが彼を救出しなければならない」
彼女は再びキーボードに向かった。画面には複雑な量子計算のシミュレーションが表示されている。
「私には、鷹山さんの研究を逆算できる可能性があります。デジタルデータを量子の状態に戻し、そして物理的な体に再構築する...」
そのとき、あかりが部屋の隅を指さした。「あれ...あの装置、前に見なかった?」
全員の視線がその方向に向けられた。そこには、複雑な配線と光るディスプレイを備えた、腕時計大の奇妙な装置が置かれていた。
村上刑事が慎重に装置を手に取った。「これは...鷹山の持ち物か?」
星花の目が輝いた。「そうよ!これこそが鍵なの。鷹山さんが自身をデジタル化するのに使った装置だわ」
彼女は急いで装置を受け取り、慎重に観察し始めた。「これを解析すれば、鷹山さんを呼び戻せるかもしれない」
星花の指が、まるで魔法を紡ぐかのようにキーボードを踊った。TOWA NIのコンピューターシステム全体が、星花の指令に呼応するように蠢き始めた。
「準備はできました」星花が立ち上がった。「まず、鷹山さんの意識をTOWA NIのメインコンピューターに呼び出します。そして、この装置を使って実体化させる...」
あかりが親友の手を強く握った。「星花ちゃん、気をつけて...」
星花は微笑んで頷いた。「大丈夫。必ず成功させるわ」
彼女は深呼吸をし、エンターキーを押した。すると、部屋中の電子機器が一斉に明滅し始めた。
画面上には、複雑なデータの流れが表示される。その中に、人の形をした影のようなものが見えた。
「鷹山さん...!」星花は叫んだ。
影は彼女の声に反応し、画面上でゆっくりと動き始めた。
星花は集中力を高め、シュレーディンガーの波動方程式を心の中で唱えた。
「iℏ∂Ψ/∂t = ĤΨ ... この方程式に従って、鷹山さんの波動関数を再構築する...」
彼女の指が踊るように動き、複雑なアルゴリズムを入力していく。画面上の影が、少しずつ鮮明になっていく。
「あと少し...」星花は額に汗を浮かべながら、最後のコードを入力した。
突然、部屋中の電気が消え、真っ暗闇に包まれた。そして次の瞬間、鷹山の装置が眩い光を放ち始めた。
光が収まると同時に、部屋の電気が戻った。そこには...
鷹山竜介が立っていた。
部屋中が驚きの声に包まれる中、星花はほっとした表情を浮かべた。
「お帰りなさい、鷹山さん」
鷹山は混乱した様子で周りを見回した後、星花に向かってゆっくりと頭を下げた。
「ありがとう...君が...私を救ってくれたんだね」
星花は微笑んだ。「いいえ、これは科学の勝利です。そして、あなたの研究の成果でもあります」
村上刑事が困惑した表情で前に出た。「鷹山さん、一体何が起こったんです?なぜこんなことを?」
鷹山は深くため息をついた。「私は...人類の進化の次のステップを探っていたんです。意識をデジタル化し、不死の存在になる...そんな研究をね」
部屋の中は、歓喜と困惑が入り混じった空気に包まれていた。
しかし星花には、これがまだ始まりに過ぎないことがわかっていた。
人類は、新たな扉を開いたのだ。そして、その先には未知の世界が広がっている。
彼女は、あかりの手を強く握りしめた。
「さあ、私たちの本当の冒険は、ここからよ」
鷹山の装置が、静かに光を放っている。それは、人類の新たな章の幕開けを告げているかのようだった。