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カフカ可哀想だよカフカ

 最近、オーディブルを頻繁に使って色々な本を聴いている。きっと元から、活字を読むのは得意ではなかったのだろうなと、この歳になって思った。オーディオブックで聴いている方が、活字を読むよりすらすらと文章が頭に入ってくる気がする。もっと早く気がつけばよかったですね。

 先日、オーディブルで何気なく、カフカの「断食芸人」を聴いてみた。短編集は持っているが、この話は今まで読んだことのない短編だったからだ。すると、内容はいつものカフカ的世界そのもののなのに、なんだか聴いていて胸が熱くなって、だんだんと泣けてきてしまったのだ。自分でもなんだか不思議な気がした。続けて、恐ろしく久しぶりに「変身」を聴いた。聴きながら、私はやはり、のめり込むうちに段々と目がうるうるしてしまった。カフカを読んだあとの感想として、あまりない感想だと自分でも思う。カフカの小説はそういう類の話ではないから。

 ではなぜ私が泣きそうになったのかと言えば、二つの小説とも、聴いているうちに、フランツ・カフカの不幸が感じ取れたような気になったから、だと思う。この2つを読んで(聴いて)いて感じたのは、カフカは書きながら、とても深く主人公に潜り込んでいること。もっと言えば、主人公だけでなく、ちょっと出てくるだけの脇役にもなりきって書いているのだと、私は感じた。
 極めてあり得ないような断食芸人という生き方、そして巨大な虫になってしまった男。そんなものになりきってしまう彼の心理を想うと、かわいそうだなぁと心の底から同情した、のだと思う。そして、誤解を恐れずに言うと、頭の中でそんな異形のものになりきってしまう気持ちを、自分自身も、ある程度理解できるなと思った。

 なにかを伝えたいと考えたとき、自分が異形のものになって話を書いてみる、という気持ちが、(一方的な思い込みだとしても)分かってしまう。とにかくそのときは、朗読を聴いているうちに、カフカに対して強い共感を感じてしまったのだった。そんな特殊な心理状況を経て、私はカフカの小説で涙腺が緩んだというわけである。

 すこぶる不気味なことを書いているのは自覚している。でも最終的な気持ちの行き先は、シンプルに「ああ可哀想だなぁ」ということだけなのです。

 というのも、「自分を異形に見立てて何かを伝える」という行為は、考えれば悲しいことに思える。逆に言えば、「そうでもしないと伝えられない」とも言えるからだ。そんなことをしたとして、ほとんどの人には伝わらないのは書き手も承知の上だ。それでも、ごく僅かな人に、その極めて説明困難な事柄を伝えるために、書いたのではないか。そんなふうに思うと、やはりカフカは気の毒で可哀想だと感じてしまう。本人からすれば余計なお世話かもしれないのだが。

 こんなこと書いても、まったく自分が見当違いの読み方をしているだけの可能性だって十分にあるのは、それもまた承知の上だ。それでも、特にカフカのような『全てを理解されることが前提として書かれていない』テキストであれば余計に、どう読んだって構わないだろう、と思う。人の数だけ解釈があって、それを許してくれる作家というのも、きっとそう多くはないと思うから。カフカの小説が書かれて100年以上経っているのに、今でも当たり前に読まれている理由の一つは間違いなくそこにあるだろう。

 断食をするだけの大道芸人の人生を、皆さんは想像することがあるだろうか。ほとんどの人は断食芸人という言葉すら聞いたことすらないのではないかと思う。私も今回初めて耳にした言葉だ。どんな職業なのかと思って物語を聴いてみても、芸人のやることと言えば、ただ檻の中に入って人々の前で断食をするだけである。それがその男の生業だ。男はその仕事を愛している。実際にそのような職業が存在したのかも分からないし、存在したとしても日の当たる職業だったとは考えづらい。そんな男の心情を、カフカは優しく、丁寧に拾い上げて書いている。話のスジとしては変身と似ているところもあるかもしれない。だから、いくらか変身の原型にもなっているのかもしれない。
 なんにせよ、読めば(聴けば)わかるが、繊細な目線だと思う。カフカは、難解で、読んでも理解できないものと思われがちだ。でも一旦、難しいことは考えずに、そこに登場する人間をただの『いち人間』として読んでみたらどうだろう。すると、そこに含まれるカフカの繊細な愛情のようなものが感じ取れるし、人によってはそれを感動的に受け止められるんじゃないかとも思う。
 少なくとも、私は何気なく聴いたふたつの小説を、不意に悲しいような、憐れむような、不思議な気持ちで聴いた。二人の主人公ともに、可哀想だなあという思いが1番強かった。

 変身でいえば、とにかくグレゴール・ザムザという主人公である。はっきり言って、ザムザは立派な人である。思慮深くて控えめで、人が気づかないところが見えて、頭も良く周りがよく見えるゆえに、絶望しているのに安易に腐ったり、毒づいたりしない。こういう人が、もっと自分に相応しい居場所を手に入れたら、きっと人望も厚く、与えられた役割も他の人以上にこなすだろうと思う。彼のような人間が、好きでもないセールスの仕事をしなくてはならないのがもう、可哀想である。そしてきっと、ザムザという人物は、カフカ自身と大きく重なっている。きっとカフカはこんな人だったんだろうなあと想いを馳せながら読む。読んでいて(聴いていて)、ザムザが安らげるような結末を迎えられることを、先の展開を知っているのに、つい願ってしまった。

 しかし、カフカの小説においてそんなことは起こりえない。望むものは確実に手に入らないし、起こるべき救いは起こるべきうちには決して起こらない。こういうところを、悪夢だとか不条理だと表現されるのだろうが、それはきっと小説の一面しか見ていないことになると思う。
 確かに、今言った「人間観察」的な読み方を許さない小説があるのも事実だと思う。「城」とか、いくつかの短編なんかだ。私もカフカの小説を全部読んでいるわけではないけれど、そういう意味で大きくふたつに分けられるのかもしれないなとふと思った。

 なんにせよ、わかりにくいと言われる「変身」を、一旦難しいことは抜きにして、単純に、登場する人の心情だけ追って読んでみてほしい。ザムザは人の心を持った大きな虫として読んでほしい。あえて言うまでもないことだが、カフカは、人間の細やかな心の動きを、丁寧に書き出すことのできる作家だ。でもそれは、あまりそれまで他の人が書かなかった種類の心の動きかもしれない。よく書かれる類の心情というのは、恋愛とか、友情とか、嫉妬とか、怒りとかだ。でもカフカはもっと別の類の心の動きに価値を見出し、書いた。すると、不思議なことに、そこに生き生きとした人間らしい心の動きが映し出されて見えるのだ。

 カフカと言えば、その独特な世界観が語られることが多い。でも、難しく考えずに、人間ドラマとして読んでみるのもいいのではないだろうか。

 とにかくこの経験を通して、あらためてカフカは偉大だと思い直した体験だった。


 適当なプラハの写真を貼っておきます。プラハの街並みは美しいですね。いつか行ってみたいものです。

カフカの生家らしい


 ごちゃごちゃと書きましたが、言いたいことはただこれだけです。

 ザムザかわいそうだなぁ、カフカかわいそうだなぁ。


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