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フォスター・チルドレン 04
第1章 間違いなく逃げ出したんだと思う(2)
1(承前)
やがて車はビジネス街を離れ、人通りの少ない脇道に入った。居酒屋やバーが建ち並ぶ夜の街。今はひっそりと静まり返っていて、時折、野良猫が走り去っていく姿だけが見える。
胸の痛みは少しずつ和らいでいった。完全に痛みが消えたのは、薄汚れたジャンパーを着て、道路の脇に座りこみ、競馬新聞を広げている四十過ぎぐらいの男を見かけたときだ。
彼は車がやってきたことに気がつかないのか、ひたすら新聞の活字を追っているようだった。
「お・じ・さ・ん、じゃ・ま・だ」
アツシがクラクションを短く鳴らしながら、それに合わせて歌うようにいう。競馬新聞の男は緩慢な動作でこちらを見上げ、茶色く汚れた歯を見せてにたりと笑うと、酔っぱらっているのか、身体を左右に揺らしながら、道の端に寄った。
「おまえも、あと数年したら、あんな風になってるかもな」
アツシがそういって、けらけらと笑う。
「かもな」
僕も笑った。もちろん、本当におかしくて笑ったわけではない。
後ろを振り返って、もう一度男を見る。彼はこちらに向かって手を振っていた。しわくちゃの顔は、少しだけリカードに似ている。
……リカード。
僕は足元に置いていたスーパーのビニール袋をつかみ、中を覗きこんだ。昨日買った色画用紙や蛍光ペンが入っている。リカード・ラモス――ボリビアに住む僕の子供への贈り物だった。
「着いたぞ」
アツシの言葉で顔を上げる。目の前には趣味の悪い派手派手しい建物がそびえ立っていた。蝶ネクタイをした茶髪の青年が、車を誘導している。
「あ、貴重品を車の中に置きっぱなしにするなよ。この辺り、車上荒らしが多いそうだからな」
僕は黙って頷くと、リカードへの贈り物が入ったビニール袋を握りしめた。
「いらっしゃいませ」
車を降りて、建物の中へ入ると、三人の男が馬鹿丁寧に挨拶をしてくれた。こういう場所に来ることが初めてだった僕は、「あ、ども」と間抜けに挨拶を返す。
アツシは手慣れた様子で、フロントにメンバーズ・カードを見せ、料金を支払った。僕はきょろきょろと辺りを見回しながら、ビニール袋を胸に抱える。きっと、初めて東京駅に降り立った田舎者のような顔をしていたに違いない。
床には高級そうな絨毯――といっても僕にその価値がわかるわけではない――が敷かれていて、壁も絨毯と同じ柄で統一されていた。照明は薄暗く、エルキュール・ポワロあたりが活躍する外国ミステリ映画にでも出てきそうな古めかしい大邸宅を連想させる。
もっと下品なところだと思っていた。何度か行ったことのあるファッションヘルス――それもやはりアツシに強引に誘われて出かけたのだが――は、店内に入ると、窮屈なカウンターの横に、裸の女性のナマ写真がべたべたと無造作に貼られていた。待合室も狭く薄汚れていて、学生時代住んでいた四畳半の下宿と雰囲気がそっくりだったことを覚えている。
だが今いるこの場所は、時代がかったホテルのロビーのようだ。蝶ネクタイの男に案内された待合室も、ため息がでるほどの立派な造りとなっていた。部屋の一角に置かれた大型テレビから流れ出る映像が、いわゆる裏ビデオと呼ばれているものでなければ、本当に高級ホテルと錯覚していたかもしれない。
「しばらくお待ちください」
茶色い液体を目の前に置くと、蝶ネクタイはホテルマンのようなきびきびとした動作でその場を去った。真面目そうな好青年。ああいう男が、どうしてこのような仕事をしているのか、ふと疑問に思った。どんな過去があるのだろうかと、彼の背中を見ながら考える。
「おまえ、緊張してるだろ?」
アツシはソファに乱暴に座ると、意地悪っぽい目つきで僕を見上げた。
「緊張しすぎて、本番で使い物にならないなんて、情けないことにはならねえでくれよ」
そういって、テーブルの上の液体を飲み干す。僕もアツシの横に座り、グラスの中身を口にした。てっきりアルコールだと思っていたのだが、それはよく冷えた麦茶だった。こんなにも物々しい場所に、所帯じみた麦茶は似合わないような気がした。
つづく