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脱線 12
5(承前)
「先生……」
裕太は僕の姿を見て、慌てて逃げ出そうとしたが、今回は踏切で出会ったときのようにはいかなかった。素早く彼の右手をつかみ、
「どうして逃げる?」
と厳しい口調で問いかける。
「離せ、離せよ。馬鹿野郎」
裕太は腕をふりほどこうとしばらくの間、じたばた暴れ回っていたが、やがてあきらめたのか、その場に力なく座り込んだ。
「こんなところでなにをしていた?」
「先生だってなにしてるんだよ。もうすぐスイミングの時間だろ?」
「今日は休みの日なんだ」
「俺だって夏休みだ。だからどこでなにしてたって別に文句はないだろう?」
「やましいことがないなら、逃げる必要だってない」
裕太の腕を握る手に力を込める。裕太は僕を睨みつけ、口を尖らせた。
「俺、別に悪いことなんかやっちゃいないよ」
「じゃあ、いえるだろう? ここでなにをしていた?」
「別になにも。天気がいいからぶらぶらしていただけだよ」
「ポケットにしまい込んだものはなんだ? 悪いことをしていないなら、見せてくれたっていいよな」
僕は抵抗する彼の片腕をひねり、ポケットの中のものを取り上げた。
ポケットの中に入っていたのは「三年二組だより」と記されたわら半紙のプリントだった。夏休み前の注意点などがこと細かく記されている。「夏休みの決意」というコーナーもあり、そこには三年二組の一人一人が、簡単なコメントを寄せていた。充や裕太の名前もある。印刷に失敗したのか、右側四分の一は読み取ることができなかった。
僕は眉をしかめた。なぜ、こんなプリントがここに落ちていたのか。なぜ、こんなプリントを裕太は必死で探し回っていたのか。
プリントを持つ指先がてかてかと光っていることに気がついた。油がついてしまったらしい。
油?
プリントを鼻に近づける。灯油のにおいがした。
「おい、裕太」
僕はどれだけ怖い顔をしていたのだろう。裕太の表情が歪んだ。
「おまえ、まさか……」
「充がいってた」
裕太はきりりと口を閉じ、僕を見上げた。
「証拠がなければ、犯人を捕まえることはできない」
「おまえ……」
裕太は僕の手からプリントを奪い取ると、僕を押しのけて走り出そうとした。そうはさせるかと、彼の左腕を強く握りしめる。
「……あ」
裕太は石にでも躓いたのか、その場にがくりと膝を折って倒れた。
「おい」
僕は自分が握った彼の左腕を見て、愕然とした。肩のあたりに血がにじんでいる。シャツは真っ赤に染まり、地面に血がこぼれ落ちた。
僕はひるんで、裕太から手を離した。僕の手のひらも赤く染まっている。裕太は左肩をかばうようにして、僕から逃げ出した。
「おい、裕太!」
大声を出したが、彼のあとを追うことはできなかった。裕太のことがまるで理解できない。このままなんの準備もなく、裕太とぶつかり合うことが恐ろしかった。
ただこのとき、ふと充の母親の言葉が僕の脳裏に甦った。
――充、クロを探して、K**高校まで行っていたんです。
K**高校へ行くにはこのアパートの前を通るだろう。ひょっとして充は放火の犯人を見たのではないだろうか。
そして、その犯人が裕太だったとしたら?
まさか……口封じのために?
充は裕太に二度、危害を加えている。一度は昨日の昼間、学校で椅子を投げつけて。もう一度は今日、車の前に突き飛ばして……。裕太はすぐに救急車が来てはまずいと思った。救急車の到着が少しでも遅れれば、充の助かる確率はそれだけ低くなる。
だから……線路に置き石を?
僕は頭を振った。いや、あり得ない。これは僕の妄想だ。小学生がそこまで打算的に、そこまで悪魔的に、物事を考えられるだろうか。
しかし……。
さらに、充の母親の言葉を思い出す。
――脱線事故で救急車が遅れたらしくて……ひやひやしていたんですよ。
救急車の到着が脱線事故によって遅れたのは事実なのだ。
――証拠がなければ犯人を捕まえることはできない。
裕太はそういって、僕に挑戦的な視線を向けてきた。
ああ。だったら、証拠を見つけてやろうじゃないか。僕はなんとしても、おまえの過ちをおまえ自身にわからせてやる。
絶対に……おまえを立ち直らせてやるからな。
つづく