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フォスター・チルドレン 07
第1章 間違いなく逃げ出したんだと思う(5)
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「お待たせしました。どうぞ」
蝶ネクタイの男が戻ってきて、僕を呼んだ。彼のあとについて、足早に待合室を出る。
カーテンの前に立たされ、「ではごゆっくり」といわれ、促されるままカーテンをくぐった。
一人の女性が立っていた。僕の顔を見てにこりと微笑み、「こんにちは」と明るい声を出す。
「ランです。よろしくお願いします」
可愛い女の子だった。綺麗なストレートの黒髪をかき上げ、僕の腰に手を回す。柑橘系の香りが漂い、緊張はあっさりと解けてしまった。
なぜだか懐かしい気分だった。彼女とは初めて会ったような気がしない。
「あの……いきなりこんなことを聞いてごめんなさいね」
彼女がためらいがちに口を開いた。
「さっき、変な声がしたの。甲高い声が聞こえたかと思ったら、今度は急にだみ声になって……お客さんらしいんだけど、見かけましたか?」
「ああ、ごめんなさい」
僕は頭を掻いた。
「あれ、僕の友人なんです。お騒がせしてすみません」
謝りながら、どうしてそんなことが気にかかるのだろうと、不思議に思った。ちらりと様子をうかがうと、彼女はかすかに眉間にしわを寄せている。目の下にうっすらと隈ができているのがわかった。
僕は階段を昇りながら、彼女の顔を観察した。小鼻の横に小さなほくろがある。ややつり上がった目は、高校のときに気になっていた気丈な同級生を彷彿とさせた。あの子の名前はなんといっただろう。確か……蘭。
「ラン?」
僕は動きを止めた。驚いたような顔をして、彼女が振り返る。
「ひょっとして美並か?」
「やっぱり……樋野君なの?」
蘭の表情が営業用ではなく、もっと自然な笑顔に変わった。
美並蘭とは高校三年生のとき、一年間だけ同じクラスになったことがある。同級生とはいっても、お互いに喋ることなど、なかったに等しい。僕は大学進学を目指して必死に勉強するガリ勉だったし、蘭は一週間に二日は学校をさぼり、ゲームセンターや喫茶店などでぶらぶらと時間を潰す不良生徒の一人だった。
僕たちには接点などまるでなかった。髪を茶色く染め、派手な化粧をして、落ちこぼれの仲間たちと下品に笑っているだけの蘭を、僕は眉をひそめて見続けていた。蘭も、ガリ勉の僕などまったく相手にしていなかったと思う。
しかし僕のほうは、彼女を無視できなかった。いつだって彼女の存在が気にかかった。教室で問題集を広げながらも、視線だけは彼女を追っているということもたびたびだ。
不愉快だった。蘭の存在は腹立たしかった。教師に対する暴言、同級生への暴力、乱暴な言葉づかい、下品な態度――彼女の言動、行動のすべてが気に入らなかった。
それならば無視を決めこめばいいのだが、しかし心のどこかで、僕は彼女に憧れに近い念を抱いていた。同級生の誰よりも、美並蘭という女性は気になる存在だった。
確かに蘭は綺麗だった。痛んだ茶色の髪の毛も、けばけばしい化粧の跡も、すべてを取り払えば、きっとものすごく美しい女性になるに違いないとは思っていた。
さらに彼女は他の同級生たちよりもずっと大人びていたし、実際に僕が知らない大人の世界をたくさん知っているようでもあった。
男子生徒の中にも蘭のファンは多く存在した。蘭は近づいてくる男たちを節操なく受け入れていたらしい。「蘭とやった」「頼めばやらせてくれる」などという噂も、僕の耳には頻繁に届いた。
蘭の父親は昔、女性に騙され会社の金を使いこみ、あげくの果てに自殺したという話だった。真実かどうかはわからないが、「あいつの身体には好き者の血が流れているんだよ」と同級生が話していたのを覚えている。
つづく