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フォスター・チルドレン 27
第3章 誰を救おうとしているんだろう?(2)
1(承前)
「それにしても信じられません。樋野さんが事故に遭うなんて。車の運転に関してはとても慎重な方なのに……」
「父は疲れていたんだと思います。夕べも、今日中に作らなければならない書類があるといって、遅くまで事務所に残って仕事をしていたんですから」
別に攻めるつもりはなかったのだが、そんな言葉を口にする。
「そんな急ぎの書類はなかったはずなんですけどねえ」
山添さんはこめかみを中指で押さえながら、困ったような表情を浮かべた。
「事故の詳しい状況はお聞きになりましたか?」
「いえ、まだ。これから警察の人の話を聞くことになってます」
「事故が起きたのは午前一時過ぎだそうです。交差点で赤信号のところを、北の方角から時速六十キロのスピードで突っこんできたということです。青信号で東から走ってきたトラックと衝突して、その勢いで樋野さんの車は電柱に激突したらしくて。警察の人は居眠り運転と判断したみたいですけど……」
「そうですか」
声が震える。それ以上、なにもいうことができなかった。
実は、親父のドリンクボトルに僕が睡眠薬を入れたんです――そう話したら、この穏やかな老婦人はどんな顔をするだろう?
「ビルの守衛さんの話だと、樋野さんは十時頃、会社を出たらしいんです。そこからまっすぐ自宅に帰ったのなら、十時半には家にたどり着いていたはずなのですが、どうやらすぐには戻らなかったみたいですね」
ふと奇妙なことに気がついた。親父が事故に遭ったのはE**岬近くの交差点――駅前中心街から南に数キロ外れた場所である。
「心のオアシス」の事務所は駅のすぐ裏側。親父の家はそれよりも北に位置する。
親父はどうして、自宅とは正反対の方向へ車を走らせていたのだろうか? あのまま南へ車を走らせても、そこには海があるだけなのに。
それに、十時に事務所を出てそのまままっすぐ南へ向かったのだとしたら、午前一時という時間はあまりにも遅すぎる。
僕はいつの間にか、両手に握り拳を作っていた。
親父は一体、どこからどこへ向かっていたのだろう?
昨夜、僕が事務所を去るときにかかってきた電話のことが、不意に脳裏をよぎった。
――殺してやるって……駄目ですよ、そんな物騒なことを口にしては。
親父は電話口に向かってそう答えていた。
――今、どこにいるんですか? 私、これから――。
私、これから――。
これから――なんだったのだろう? これからそちらへ行きます?
親父は事務所を出たあと、誰か――電話の主? ――と会っていたのだろうか。
病院の人から、事故のときに親父が身につけていたものを手渡された。
背広、ワイシャツ、スラックス、下着、靴下、眼鏡、腕時計……。
服には染みひとつついてはおらず、これだけを見たら、親父が事故にあったとは到底思えない。ただ眼鏡のレンズだけは粉々に砕けていて、事故の悲惨さを物語っていた。
さらに、制服姿の警察官が親父の車の中にあった小物を段ボール箱に入れて持ってきた。箱の中を覗きこんだ僕の目に最初に止まったのは、親父が愛用しているエメラルドグリーンのドリンクボトルだった。震える手でそのドリンクボトルを取り出し、蓋を開ける。親父の好きなどくだみ茶の香りが僕の鼻を強く刺激した。
このときまで、僕は淡い期待を抱いていた。ひょっとしたら親父はどくだみ茶を飲んでいないのではないか? この事故は僕の仕掛けた睡眠薬とはなんの関係もないのではないか? そんな自分勝手な希望的観測だった。
だけど――ボトルの中へあふれるまで注いだはずの液体は、半分以上減っていた。
つづく