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フォスター・チルドレン 01
プロローグ(1)
僕の左手首には小さな傷跡が残っている。二センチほどの切り傷だが、そこだけ他の部分とは色が違い、皮膚も弱々しく見える。
土砂降りの雨の中、いつも遊び場所にしていたK**城の庭園で、買ってもらったばかりのカッターナイフを握りしめ、自分の手首を切りつけたのはもう十三年も前のことだ。そう――十三年も経つというのに、いまだ傷跡は生々しく残っている。おそらく死ぬまで、この傷は僕の身体から離れてはくれないのだろう。
あの日、親父は僕を罵り続けた。「馬鹿野郎、馬鹿野郎」と同じ言葉を呪文のように何度も繰り返し、僕の頬を張り続けた。僕はただ黙って耐えるしかなかった。親父に逆らうことなどできなかった。
僕を痛めつけることで、親父の気持ちがすっきりするならそれでいい。
僕は子供心にそんなことを考えていた。
だって――僕は親父の汚点でしかないのだから。
親父は優秀な男だ。何事も器用にこなし、人づき合いもうまく、どこをとっても非の打ち所がない人間だ。それが世間の評価だった。
そんな親父の唯一の汚点――それが僕だった。
親父の愛情を感じたことなどなかったに等しい。むしろ僕のことを憎んでいるのではないかと思えたくらいだ。不器用で、自分の殻に籠もりがちで、怯えてばかりいた僕を、親父はいつもイライラしながら見ていた。
うじうじしている僕が我慢できなかったのだろう。中学教師だった親父はその職業意識も手伝ってか、いつも僕に厳しかった。僕には親父を睨みつける勇気すらなく、そんなときはただ心の中で、罵詈雑言を繰り返すだけだった。
親父は仕事に一生懸命な人だった。朝は早く、夜は遅かった。日曜日でも学校に出かけ、家でゆっくりとくつろいでいる姿など見たことがなかった。
こうして考えてみると、僕は子供の頃から、ほとんど親父と顔を合わせたことがなかったのだろう。
たまに親父が休みをとって家でのんびりしていると、ひどく緊張した。親父の前に出ると、なにを喋ればよいのかわからなくなり、必要以上のことは口にできなかった。そしてそんな関係は、高校を卒業して家を飛び出した七年前――僕が十八歳になるまで変わることはなかった。あれ以来、親父とは母さんの葬式で一度会ったきりだった。
べつに親父が嫌いだったわけではない。多分好きだったろうし、尊敬もしていた。でも親父は、僕とはあまりにも遠く離れた位置に存在する人間だった。少なくとも僕はそう思っていた。
親父は酒が好きだった。親父の酒好きはしっかりと僕に遺伝していたが、二人で酒を飲み交わしたことは一度もなかった。
親父と肩を並べて――笑い合って酒を飲む日はきっと来ないと思う。僕はどうしても親父と打ち解けることができない。無理をして一緒に飲んでも、しらけるだけのような気がする。親父に笑顔を見せることなど、とてもできそうになかった。
小さい頃はよく怒られた。そういう記憶はいまだに鮮明に残っている。「うじうじした女みたいな奴」だとか、「なにをやっても鈍くさいどうしようもない奴」と、親父はことあるごとに僕を罵っていた。
でも親父は結局、僕のあまりの間抜けさに呆れて、中学生になる頃には僕にまったく干渉しなくなっていた。それ以前の厳しさが嘘のように、親父は僕に関心を示さなくなった。
「俺と親父はお互いにまったく干渉し合わないんだ。俺が親父に反抗することもないし、親父が俺を怒ることだってない」
昔、大学のコンパの席で、酒の勢いから、そんなつまらない愚痴を漏らしたことがあった。
「反抗しない、怒られないなんて、理想の親子じゃないか」
なにも知らない同級生は呑気な台詞を吐いた。
そうだ。なにもわかっちゃいない。親父が僕を怒らないのは、僕のことを理解しているからじゃない。ただ僕に無関心なだけだ。
中学生になり、親父と話をすることはなくなり――そしてそれ以降、親父に怒られたことは一度もない。
親父は僕を無視し、僕もずっと親父を拒み続けてきた。愛されようと自分から媚びを売るつもりなど毛頭なかった。
それなのに――それなのになぜか、僕の心の奥底にはそれとは相反する気持ちも存在していた。
本当は、親父は僕のことを誰よりも愛してくれているんじゃないか。
なぜそんな気持ちが自分の中にあるのか、僕自身にもよくわかってはいない。
僕が手首を傷つけた雨の日――小学六年生のあの日のことを思い出すと、僕の胸は激しく締めつけられる。あの夜のことを思い出すたびに、僕は親父の強い愛情を感じてしまうのだ。
なぜだかわからない。あの夜だって、いつもの夜となんら変わりはなかったのに。
つづく