劇場版モノノ怪唐傘 形・真・理の真相と数々の謎について詳しく語る
本記事は、少なくとも1回は”劇場版モノノ怪唐傘”をご覧になった方を対象に書きます。
つまりネタバレ満載です。ご注意ください。
筆者は小説を読んだ後映画を3回観て(そして公式グッズに財布を解き放って)ようやく数々の謎について自分なりの答えを出せましたので、公式が配布している画像を借りてここに書きたいと思います。
あくまで自分なりの答えなので、別の答えがあっても良いと思っています。感想を是非聞かせてください。
形・真・理について
いきなり本命について書きますが、この作品、特に理について非常に難関。
TV版のモノノ怪と同じに考えるとなかなか真相にたどり着けません。新しいタイプのモノノ怪と言ってもいいです。
形について
モノノ怪となった妖の名は薬売りさんの言った通り唐傘です。
本体を現していない状態でも大量の極彩色の汚水を操り、人から水を吸い取って干からびさせる事ができます。
また、この段階ですら退魔の御札を侵食し無力化するほどの力を持ちます。
本体が顕現するときは目玉のついた結界を展開し、目玉の中から本体が落ちてきて汚水の海を作り出します。(大井戸の水なので、すごく臭い)
この時は傘に目玉がついている姿をしていて、停止する時は曼荼羅模様の傘を展開、そこから無数の水を奪う触手を放って攻撃します。
唐傘が水を奪う理屈は、傘=人から水を奪うものだから という解釈で合っています。
また、この"傘"と"目玉"はそれぞれ意味を持ち、それぞれが理に繋がっています。
真について
このモノノ怪の核となっているのは
大奥にかつて勤めていた元御祐筆の北川さんです。
この人は中級女中の中でも位が高いので、許可がなければ自由に大奥から出れない身分です。
北川さんの情念はモノノ怪になってから、人形に憑りついています。
そして、自分と似た境遇のアサを気にかけ、人形を介して姿を現し話をしたりしていました。
そしてこの北川さん、傘を持っています。
この傘は裏が青い特別な傘で、北川さんが井戸に捨てた人形の傘であり、モノノ怪として顕現した時の唐傘でもあります。
そして北川さんがこの唐傘を持っているということが、モノノ怪の理と繋がっていくのです。
理について①
捨てる者の乾きと痛み。
そして、捨てられた物の悲しみと恨み。
このモノノ怪、1つの情念でモノノ怪になったわけではなく、
2つの情念がそれぞれ別のものに宿り、それらが一体となってモノノ怪になった存在です。
人形のほうには北川さんの情念が宿り、
傘の方には捨てられたものの悲しみや恨みが宿っています。
自らを捨ててしまうほどに心が乾いてしまった、北川さんの報われない情念。
それは捨てられた人形に宿った。
そして、百何十年にも渡って捨てられ続けたモノたちの悲しき情念。
それは捨てられた傘に宿った。
元々同じ存在であった二つは一つとなろうとし、歪な形で混ざり合い、モノノ怪"唐傘"が生まれたのです。
理について②
傘に捨てられたモノの情念が宿ったということ、
これを証明するのは、唐傘が歌山さんを襲い、命を奪ったことです。
北川さんにとって歌山さんは自分の出世を後押ししてくれたむしろ恩人であり、
初日に大切なものを捨てる儀式をさせられた事はあっても、それについて逆恨みするような動機がないからです。
しかし傘はどうなのか?
傘に意思があるなら歌山さんをどう考えるのかと考えたとき、
傘は明らかに歌山さんを恨んでいるんですね。
自分たちを捨てさせ、自分と人形を離れ離れにさせた。
モノに魂が宿るなら、それが同じく捨てられたモノや捨てられた人間たちの情念と一体化し、
モノノ怪になるに相応しい情念を手に入れると言えます。
(唐傘と捨てられたものが一体化している証拠は理③に詳しく書いています。)
それゆえに、歌山さんはアサをかばい、自分だけがモノノ怪に襲われた時、これが自分のおつとめだ、というのです。
自分が捨てさせてきたモノたちの思いを報いとして受けることが、自分の最期のつとめであると思ったのでしょう。
理について③
北川さんが目玉の姿で現れるのは、
憑りついている人形には片目がない(もしくは摩耗しているかで、目として機能していない)ため、それを補うように目の姿で現れるのだと思います。
これら(目と傘)が合体することで、目のついた傘という妖としての唐傘が完成するのです。
真の項で触れた通り、北川さんは傘を持っているのですが、北川さんイコール人形なので、
人形が傘を持っているということになります。すなわち、北川さんの情念と傘の情念は一体となっていることを示しています。
さらに深掘りしていくと、傘の模様について。
女中たちがさしている一般の唐傘と、モノノ怪になった唐傘は模様が違います。(モノノ怪の傘は3つの輪が描かれてる)
そして、三郎丸が井戸の中の秘密を知ったとき、女中たちの亡骸(数えると33)から同じ模様の傘がバッとさします。
これを意味するところは、数々の捨てられたもの(現われたものだと手毬や万華鏡や人形)と同じように捨てられたものである女中たちの亡骸の情念も、唐傘と一体化しているという意味です。
これは、歌山さんを襲ったとき多数の赤い顔をした女中たち(この女中たちは臭いにおいがする。井戸の中の存在である表現)が歌山さんを襲うイメージが見えることでわかりやすくなっています。
もっと分かりやすいのだと、淡島さんが襲われる時に麦谷さんが出てくるところから既に、
捨てられた麦谷さんは唐傘に取り込まれていることが分かるのです。
数々の謎について
三郎丸は何故、井戸の中を見て絶叫したのか?
若いとはいえ、侍の彼が人の死体を見たぐらいで動じるのか、と思った人もいたと思います。
私はむしろ、若くて感受性のある彼だからこそ降り積もった人の死が延々と放置されている地獄のような光景に心を揺さぶられたのだと思います。
小説版ではより詳しく描かれ、身を投げた北川さんらしき女中の亡骸と、捨てられた人形が手をつなぎたいかのようにそばに打ち捨てられているというほんとに地獄みたいな描写が入ります。
何故ラストに、薬売りは笑ったのか?
モノノ怪となった情念から解放され、傘が戻った人形は笑っている顔に戻ります。それを察知した薬売りは、思わずにっこり笑います。
まあ間違いなくあの人形には心が宿っていると考えてよいと思います。それの心の動きを察知したのでしょうか。
人間よりも神仙に近い薬売り達はそういう微細でもあたたかな心の動きを察知できるのかもしれません。
北川さんの人形に片目が描かれれないのは何故?
これ、映画では詳しく描かれていませんが、ものすごく大事なことだと思っています。あくまで個人の感想です。
人形に心があるのは、映画のラストでわかるのですが、
片目が意図的に描かれないのを考えたとき、とりあえず目がないか、もしくは目の模様がなくなっているか、どちらかだと思います。
少なくとも片目が破損していると考えたとき、
北川さんって目が半分ない人形を大事にしてきて、
さらにそれを大奥に持ってきて、大事なものとして捨てているという状況なのですが、
これ、もしかして人形は形代としての役目を果たしていて、
片目を犠牲にして心や体への災難から守ってくれているタイプの人形の可能性があるんですよ。
と考えると、これを捨てるという行為はものすごくまずい事してて、
肩代わりしてもらっていた穢れというか苦痛というか、そういうの持ち主の北川さんに返ってきちゃうんですよね。
人形を失って、心の拠り所を失った北川さんは、同期の女中を追放するときより前から、徐々に心に安らぎのない、いわゆる乾いた状態になってしまったんじゃないかなと思いました。
まとめ:大切なものを求めても得られない悲しみ、それこそが真の意味での乾きなのか
乾きとは何なのか。
自分の感想は、心の中の栄養のようなものがなくなり、すっかり余裕がなくなった状態。
生きるのに必死になるか、もしくは生きることをやめてしまうかのどちらかしかない状態だと捉えました。
思えば麦谷さんや淡島さんも、社会に適応するために心の支えを失い、もう手に入らないものばかり嘆いていました。
北川さんも同じく心の支えを失い続けて、失ってしまった様々なものと再会したい希望を、
人形を捨てた井戸の中に見つけてしまい、身を投げてしてしまいました。
しかし、井戸に落ちても人形と本来の意味で再会することは叶いません。
北川さんは亡くなり、人形は手に入らぬまま。人形は傘を失い、手に入らぬまま。
そんな状況で情念が移ろうとしたら、北川さんから人形に、人形から傘に、傘から捨てられたものたちに、そしてそれらは一体となり…唐傘という形を得る。という流れになるのではないでしょうか。
モノノ怪が斬られ、苦しみの縁が絶たれ、人形と傘が再開した時、ようやく北川さんも報われたように思います。