キリスト神話の方法(2)サム下22
キリスト神話の方法(2)サム下22-23
■サム下7
サムエル記下第7章第12-14節の預言者ナタンの託宣によれば、ダビデの死後に出現するダビデの子孫(=種)は、神の子となり、永遠の王国を立てることになっています。この予言は、ローマ信徒への手紙第1章3節のキリスト神話に対応しています。では、ローマ書1:4の死者の中から復活についてはどうでしょうか。神の子なるダビデの子孫(=種)は、死者の中から復活するのでしょうか。
■サム下22
ローマ書1:4によれば、神の子であるダビデの子孫(=種)が死者の中から復活することが、聖書の中で約束されているそうです。そうやってサム下7以下を読み進めていくと、サム下22章のダビデの歌にぶち当たります。そこには死からの蘇生への言及が見られるのです。
この歌は、ダビデが主によって敵から救われたときに、主(ヤハウェ)に捧げたものとされていますが(サム下22:1)、歌の中の「わたし」をあえて(曲解して)ダビデ以外の人物に置き換えることもできます。というのも、この歌の最後に、主の救いがダビデだけでなく、「その子孫」にやってくることが予告されているからです(サム下22:51)。こうして、ダビデがこの歌をもってサム下7で約束された自らの子孫(=種)の運命を予告している、と解釈できます。歌の中の「わたし」は次のように言っています。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め
敵から救われる。
死の波がわたしを囲み
奈落の激流がわたしをおののかせ
陰府の縄がめぐり
死の網が仕掛けられている。
苦難の中から主を呼び求め
わたしの神を呼び求めると
その声は神殿に響き
叫びは御耳に届く。(サム下22:4-7、新共同訳)
主の高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ
大水の中から引き上げてくださる。(サム下22:17)
■復活
この歌の中で、主の行動を表す動詞は、完了形であったり未完了形であったりします(ギリシャ語版でも過去形と未来形が入り乱れています)。よってこの歌は、すでに起こったことを語るだけでなく、これから起こることを予言しているようにも見えます。
いずれにせよ、「わたし」は死の苦しみを味わいますが、主に向かって救出を呼び求めると、主は彼を掴んで救い上げてくれます。主は、ダビデの子孫を決して死の危険に遭わせないのです。
たしかにサム下22章からだけでは、ローマ書1:4が言うところの「死者の中からの復活」を引き出すことはできないかもしれませんが、ほんの少しの想像力と、再生する神々の神話のパターンと、旧約聖書の他の箇所とを組み合わせれば、復活の神話を作り出すことは難しくないでしょう。その点についてはまた詳しく議論するとします。
■キリスト神話の材料
ローマ書1:3-4では、ダビデの子孫が、死者の中から復活し、神の子とされたということが、聖書の中で預言者を通して約束された、と語られています。ほんの少し調べてみると、その神話の材料が、サムエル記下7章と22章であったことがわかります。そこでは預言者ナタンが、ダビデの子孫(=種)がダビデの死後に誕生し、その者が神の子となり、永続する王国を立てる、と約束しています。そしてダビデは自作の歌の中で、自分の子孫(種)が(サム下22:51)、主によって死から救出されることへの確信を声に出しています。
■神話的イエス
以上のように、ローマ書1:3-4のキリスト神話は、旧約聖書のサムエル記を素材として作られている、と言えるのです。ここで重要な点は、キリスト神話はその生成過程において、史的イエスや福音書的イエスを必要としない、ということです。ガリラヤでイエスがせっせと活動しなくても、旧約聖書のダビデ伝説をいじり倒すことだけで、キリスト神話は出来上がってしまう可能性があるのです。
2021/01/12
作:Bangio
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