「治る予定」
男はスケジュールを立てるのが酷く下手だった。
仕事の用事に穴を開けそうになったことも一度や二度ではない。
このままではとんでもないミスを犯して会社を追われてしまうと危機感を覚えているのだが、どうしても治らない悪癖だった。
その日も男は苦々しい表情で昼間のミスを悔み、憂さ晴らしとばかりにガード下のちょい飲み屋で酒をのんでいた。
そして、その日何回目かの深い溜め息をついたときだった。
「どうしました? なにか悩みがありそうですね」
隣で静かに飲んでいた白髪の老紳士が話しかけてきた。
「え? ……ああ、すいません。仕事がうまくいかなくて」
「なるほど。もしよかったら愚痴を聞きますよ」
「いやそんな。大丈夫ですよ。……え……? そうですか? なら……愚痴というほどのものではないんですけどね……」
老紳士は事情を一通り聞いた後、しばし思案の後、懐から一冊の手帳を出しながらこう言った。
「こちらの手帳をお使いなさい」
手帳を開くとそれは予定を書き込むためのスケジュール帳だった。
「お爺さん。お気遣いは嬉しいんですが、このての手帳はもう使ってるんです。それでもうまく行かなくて……」
「まあまあ。よくお聞きなさい。このスケジュール帳は、スケジュールを事細かに書く必要はありません。一言『仕事がうまく行く』や『同僚からの評価が上がる』等と、あなたの治したいことの希望を書くのです」
「はあ……?」
「まあ騙されたと思って一度試してご覧なさい……。ああ、但し注意が。一日分の枠に書くことができるのは一つだけ。そして、一度に一週間分以上は書き込まないこと」
そう言い残し、老人は勘定して席を立った。
「何だったんだあの爺さん……?」
それでもなんとなく気になった男は、半信半疑のままその手帳の翌日欄に
《仕事がうまくいく》
と書き込んだ。
翌日、久しぶりに何事もなく、全ての予定が滞りなく済んで帰宅の途につくことができた。
家に帰って早速同じ言葉を一週間分書き込むと、やはり全てがうまくいく。
上司からもここ数日はミスが無いなと褒められた。
しかし、物事が上手く行き過ぎると調子に乗るのが人間の性。
数カ月後、よく確認せずに一日分多く書き込んでしまった。
そして一週間経過し、その翌日。
軽い足取りで会社へ向かう最中、石につまづいて打ちどころ悪く両腕の骨を折ってしまう。
通勤途中のことだったので労災が下りたが、両腕をギプスで固められた状態では仕事が出来ない。
入院ベッドでやることもなくぼーっとする日々。
二週間後、経過観察のためレントゲンを撮ると医師が訝しげな顔をする。
「治りが遅いですね……。普通ならこのくらい日数が経っていれば徐々にくっついてくるんですが……まあ個人差が有るものなので」
そう言われた男は、若干嫌な予感がしたがまあそういうものかと思いなおした。しかし、また数週間後のレントゲンでも全く改善しておらず、大型病院への転院を余儀なくされた。それでもなお原因はつかめず、途方に暮れていたある日、病室をノックする音がした。
男が見ると、入り口にはあの老紳士。
「あなた、一週間分以上の予定を書き込みましたね。八日目の予定は効力を失ってあなたは運悪く事故にあってしまった」
「な、そ、そんな! いや、それにしても折れた骨が治らないのはどういう事です!」
「簡単です。あなたが手帳に『骨折が治る』と書き込んでいないからですよ。そうすれば全て解決です」
男は驚いた顔をして数秒の逡巡の後、心底安心した表情を浮かべた。
「それではこれで」
老紳士は、ふ、と消えるように去り、静かな病室を取り戻した。
そして男は、ギプスで固められスプーンすら持てない自分の手を見て絶句し天井を見上げた。