弱者救済 vs. 弱者淘汰 という二項対立的な概念 (2024/07/28,公開は07/30)

障害福祉とか性的マイノリティへの理解、反ルッキズム(弱者救済)と自然の摂理(弱者淘汰)ってかなり対立する概念な気がするんだけど、なぜヒトの種は弱者救済を推し進めることを選択するのか、そうあるべきだと思うのか、論じてみる。

それが正義だというのはそうだが、ではなぜ正義なのだろうか。

ってのはまあ中学生ぐらいのときに考えた気もするけど、妥協点じゃなくてもっと突き詰めた答えが欲しいよな って久しぶりに思ったので。


社会的マイノリティは、人類が現状の社会制度を見直すきっかけを与えることそれ自体のために存在するという説

マイノリティなんていうのは結局、その時代・その環境における少数派であるにすぎないのであり、背景によらないフラットな見方をすれば、それは遺伝の変異性(偶発的、あるいは連続的に多様性を生み出すことによって種の環境適応可能性=生存可能性を高める性質)のようなものであると言うこともできる。

したがって、もし、その変異に応じて社会の側を変形させることができれば、それによる機会損失(わざわざ変異したのに、適応できる環境がなかったというケース)を防げるから、

結果として、種の個体数は増えていくし、技術革新も進んでいく、社会制度も見直せる、ということを、人類という種が、数多の失敗の歴史から学んできたのかもしれない。


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