机上の勉強と肉眼の体験のあわいについて
前回のnoteに書いたように、海外旅行に行ってきた。
それに当たって本当に少しだけ建築や世界遺産の勉強をしていた。
勉強しながらGoogleMapで綺麗な写真をいっぱいみて、その建築にまつわるエピソードをメモしたりしていた。
そうしているうちに、これって実際見に行く必要はあるのだろうか、といった気持ちになってきた。
色々なことを下調べして、結果それを現地でうんうんやっぱりそうだよね、と答え合わせする。そこに驚きはないんじゃないのだろうか、と一抹の不安があった。
家にいながらこんなに高画質で綺麗な写真がいっぱい見られるのに。
それならそれでいいじゃないか。
結果、そんなのは全くの杞憂だったのだけれど。
そこにはちゃんと息を呑むような光景があり、
画像では伝わらない密度があり、凄みがあった。
本じゃなく、GoogleMapじゃなく、現地に行って直接見ることの意味ってなんだろう。
そこにはゼロとイチには収まらない無限の質感があり、奥行きが存在し、人々の息遣いがあった。
例えばバチカンの息が詰まるような荘厳さとオルガンの音に満ち満ちた雰囲気は絶対に行かないとわからなかった。
たとえばケルンの大聖堂の外側の密度と内側の抜けるような広がりの対比は行かないとわからなかった。
2次元と3次元の間の圧倒的な差があると同時に、それ以上に、そこには密度があったように思う。
例えば、その建物ができるまでの道のりを知っていたとして、
そこに思いを込めた人々の存在を知っていたとして、
それが現実に、自分の立つ場所と地続きに繋がっていると実感できるかどうかはまた話が別だ。
たくさんの人々がいて、大建築を完成させるだけの思いがあって、
それが遠いおとぎ話ではなく同じ星の上に同じ人間が起こしたことだと思うには、それなりの密度が必要だ。
たくさんの物語にさらされて生きている私たちではあるが、
その実この星の上にはたくさんの物語が実際に行われては紡がれていっている。その先にこうして生まれた私がいて、遠い空を超えてこうして立っている。
そういうことを実感するには、やはり現地に行ったほうがいいんだな、ということがわかった。