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うしなわれた水族園

ずっと書かないといけないと思っていることがあって、それは水族園のこと、いまはもうない水族園、二度と行けない、水族園のこと。
わたしは兵庫県の塩屋という町で生まれて育って、最寄駅から瀬戸内海沿いの線路、二駅となりの須磨海浜公園駅には水族園、須磨海浜水族園という場所があった。はじめて行った記憶がないほど、気がつけば母に手を引かれて居るような場所があった。すべての景色に、物心ついたころから見覚えのあるような場所があった。
須磨海浜水族園は三角形、わたしのスマスイは三角形、車の窓からみえる三角屋根がスマスイの証拠だった。ペンギンの親子の募金箱、魚なのかなんなのかよく分からない、ピンクやきいろの顔が乗ったオブジェ、姉は気持ち悪いと言っていたけどわたしはそれに見入ってしまった。ステンドグラスのひかる廊下、おおきなおおきな大水槽、となりには上を向いたホホジロザメのあたまの標本、壁いちめんが水槽の水中トンネルでアマゾンにいくこともできた。2メートルのピラルクの絵が縦向きにかかれた看板にこっそりとしたメモリがついていて、「大きさを、はかってください。」と書いてあった。ちいさな水槽のなかのつるつるとあざやかなカエルがわたしはすきだった。そこはアマゾン館、蒸し暑いアマゾン館が毎回いちばんの楽しみだった。
本館の屋上にはカメがいた。リクガメが散歩してウミガメが泳いでいた。そこにあるささやかなふれあいプールが好きだった。ネコザメの背中がざらざらしていた。亀楽園と名付けられた池があってアカミミガメがあふれんばかりに、それは思わず「量」という語を想起させるような数がおり、いっぱいに甲羅を乾かしていた。フードコートのかき氷、麦わら帽をかぶったペンギンのかたちをした、わたあめの機械があった。おみやげやさんは外と室内にふたつ。手のひらにのる、ピンクのイルカのぬいぐるみが実家にある。大きなジンベエザメのぬいぐるみがほしくてママ、これほしいかも、それはあかんわ、なんで、それはちょっとおっきすぎるわ、なんでいやや、もういやや、もうしらん、かなしくて仕方がなくてなみだがでてコンクリに足裏のすべてを叩きつけるようにわたしは走った。ちいさなころ、スマスイでわたしはよく母と姉からぬけだして走って、怒って泣いた。家族みんな、わたしのことがきらいなのだとおもって泣くことがよくあった。
高校生のころ、すきな男の子と行ったスマスイ。イルカショーで手拍子ができなかった、わたしもあのひとも。ちいさな子どもが近くに座っていた。おそろいのストラップを買ったね。わたしは黄色いスカートを履いていた。いや、白いワンピースだった?ああすべて。すべてをおぼえていたいのに。さかなとせいくらべのできる場所、ペンギンがおよいで、大水槽は真上からもみることができた、テッポウウオもライギョもいた、ああ、うしなわれた場所、ここはもう、うしなわれた水族園。
スマスイはいまはもうない。スマスイはいまはもうない。もうわたしはスマスイに立つことはできない。それはほんとうのことでこれからの一生、ほんとうのことなのね。
今年の6月、あたらしくなった須磨の水族園。高校生のいつだったか、スマスイがリニューアルします、と告げられたのだった。気がつけばアマゾン館は取り壊しで入ることができなくなっていたのだった。気がつけば。母と行った日、わたしたちは知ったのだ、もうアマゾン館にはいることはできない。わたしたちは三角屋根の本館だけに入ることができた。はじめてだった。場所がなくなるということをわたしが知ったのはスマスイがはじめてだった。いったいスマスイがなくなるということがどういうことであるのか。本館の屋上から、解体されてゆくかつてのアマゾン館を友人と見たのだ。この場所は、ああ場所というのはあんなにかたく、わたしたちを約束してくれていた。あんなに確固であった場所というのは。わたしたちはこの足で立って、はしることができたのだ。ここに居たのだ、わたしたちはここに居たのだ、きちんと確固にわたしは居たのだ、ねえかつてのあなた、きみもかつてのわたしと居たのだよ、ほんとうなのだ、ほんとうなのだ、母も姉も父も、一緒にここにいたのだ、ほんとうなのだよ、イルカショーで食べたやきそばとアイスクリーム、遠足でレジャーシートを広げたビー玉の詰まった地面が、その硬質な約束が、ああ崩れていく、ドリルの音でがががが、わたしたちは粉になって風になって海へゆく、足音が、にじむゆびさきが粉になる。
三角屋根は消えてしまった。スマスイはうしなわれた。不気味なオブジェもなにもかも。あたらしく大きく、かっこよくなんてならないで。
須磨シーワールドという名前が、わたしは好きになれない。なにもかもがいれかわってもずっと、そこにあった三角形のスマスイは、もう決して現れてくれないのだ。どこへゆけというの、無数の無数のわたしたちはいったいいまどこにいる、場所というのはあんなにかたく、絶対であったのに、それがいまはこんなにこんなにこころぼそく頼りないわたしの、このあたまの中を、去ったりやって来たりするだけのものになってしまった。もうスマスイはないのです。スマスイに立って、確かめて、おもいだすということが、わたしたちは二度とできない。これからいろんなことを忘れていくだろう、気がつけば。かなしいね。場所というのは。

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