思考するな、そこに答えはない。口に出せ、臆病な馬鹿者。
「くろぎって本当に俺のこと好きなの?」
大きな喧嘩をすることもない、穏やかな日々を過ごし始めて一年経った頃に放たれた言葉。今となっては恋人にこんなことを言わせた自分はかなり酷だったと思えるようになったが、当時の自分にとって青天霹靂な投げかけだった。
めんどくさいな、という自分本位な気持ちが生まれたのも否定できない。どうしてわかりきったことを聞くのか。私は満点には程遠い返答をした。
「嫌いだったらデートしないし、毎日LINEもしないよ」
デートをすること、本来なら連絡頻度にこだわらない私が相手のペースに合わせて毎日LINEをしていること。
この事実がこれ以上にない相手への好意の証明じゃないか。
何を不安に感じているんだろうと本気で疑問に思ったし、むしろ自分の好意が疑われたような気がしてショックすら感じていた。
が、このような状況に陥った相手が求めているのはそういう温かみのない弁明ではないことは賢明な読者にはお分かりだろう。
「俺がいなくても楽しそうだし」
「好きって言うのはいつも俺から」
「……俺だけが好きなんじゃないかって思う」
こういう肝心な場面で悪手を打つ私は、いつものクセでたった一つの最適解を提示することができなかった。
すなわち、「友達と恋人は別軸で両立しているから、友達と楽しんでいるからといってあなたが不要と思ったことはない」「毎週会って一緒に出かけたり毎日他愛のないことでLINEしているのは私にとっては当たり前のことじゃなくて特別なこと」と、相手の不安な気持ちに寄り添う言葉ではなく、あくまで自分の普段の振る舞いと相手への好意の存在が矛盾しないことを「理解」してもらうための説明が先に出てきてしまったのだ。
そのあとにようやく「だから私も好きだよ」とおまけのように添えることしかできなかった。
私は「好き」というたった一言を、付き合い始めてからその時に至るまで自発的に伝えたことがほぼなかった。
そのうえ、「デートをすること」と「毎日LINEをしていること」が私の気持ちの表れであることを相手が認識する術もなかった、というごく当たり前な事実に頭を殴られるような心地すらした始末だ。
この過去のエピソードの反省点として恋人の好意に胡座をかいていた、という側面も挙げられるが核心はそこではない。
ツイッターにしろこのブログにしろ、文章で自分の主義主張を不特定多数に向けて発信することに何の抵抗もない一方で、目の前にいる相手に直接自分の感情を伝えることが致命的に下手だと気づくようになったのはここ数年の話だ。そして、相手から感情を打ち明けられた時ですら理屈で応戦してしまい、結果として相手に寄り添えていないことが多いと気づいた。
理屈をこねくりまわすことばかり得意になり、加工のない感情を真正面からぶつけたり、ぶつけられることに怯んでしまう私は正真正銘の臆病者だ。
一体、なぜそんなことになってしまったのか?
この記事は自戒を込めて更新する。
1.「内向型熟考+自己完結」は自分を守るための手段だった
自分で言うのもアレだが私は楽観的で、ごちゃごちゃ疑うとかネガティブになるとかもなく、素直に生きているタイプの人間だと思っている。
一方で、私は周りの人が思っている以上にかなり「考える」タチの人間でもあると思っている。
もう少し詳しくいうと、対峙している事象が何であれ、とにかく理屈にはめて物事を捉えようと思考することが非常に多い。この記事もそうだが他のブログ記事の視点、語りの姿勢から察することができるだろう。
なんだか矛盾しているような気がするパーソナリティだが、この奇妙な要素が両立しているのは「考える」一面をあまり表出させないからだと思っている。
どんなことを私は考えているのか。例えば、周囲の人がどうしてその言動をとったのか・どういう感情が渦巻いているのかを無意識のうちに推察することが多い。粒度としては言語化して他人に説明できる程度に深掘りしていることがほとんどだ。
要するに、中二病真っ只中の人が言う「人間観察が趣味です(暗黒微笑)」をナチュラルに実践しているといったところだろうか。
実際、友人らにしばしば人間関係について相談される時、
「彼はこういう性格だから今の状況できっとこういうことを考えている、だからああいう行動をとったと思う」
「あの子は悩んでいるようだけど、これまでの背景と利害を考慮した結果、最終的にはこういう選択をするのではないか」
「ああ言ってるけど、言葉のニュアンスと会話の流れから察するにおそらく真意はこうだろう」
上記のように返すことが多い。
共有されうる手がかりを元に作り上げた仮説を順序立てて伝えることで何度も感謝された。
「冷静な視点からの意見だから安心できる」
「確かにそう考えると腑に落ちた」
と。
相談を持ちかけてくる人というのは、自分が抱く違和の正体を「理解する」、もしくはぼんやりと存在する自分なりの答えを確固たるものにする「裏付けを得る」ために助言を求めていることが多い。
そんな時は確かに私の思考方法は相性が良い。
相談を持ちかけられるたび、私は「いかに筋が通った仮説を説明できるか」を考え、私自身が納得できる一つのストーリーを作り上げて相手に提示してきた。
この「仮説を通して理解する」作業は自分自身が抱く悩みや違和に対しても息をするように取り入れていることを最近自覚するようになった。
しかも、自分の中で作り上げた仮説をわざわざ当事者に伝えることもしなければ仮説が正しいかを確かめる作業を必須としない。自分一人で納得し、自己完結させるという特徴も持ち合わせていた。
では、私が納得を求めて思考するのはなぜか。そして、仮説の真偽を確かめることなく満足してしまうのはなぜか。
自分にとって、納得を求めて思考する理由はただ一つだ。
正体不明の事象によって心の平穏が脅かされる事態から抜けだすためである。
自分にとって、「理由がわからないこと」は日常生活の中でストレスを感じる大きな理由の一つとなっている。
人間関係、特段恋愛においてそれは顕著となる。
何か引っ掛かりが生じた場合、直接相手に「どういうこと?」「なんで?」と聞くのが一番確実な解決方法であるが、場合によっては本人に聞くのが憚られるようなケースもあるだろう。
憚られるのはそもそも私がその疑問を相手にぶつける筋合いはあるのか、という前提もあれば、土足で相手の中に踏み込むことになるんじゃないかという遠慮、相手の意図や思惑、本心に対し丸腰で向き合うことに対しての恐怖も含まれる。
だから相手に直接ぶつけにくい時、私は自分を落ち着かせるために、相手を理解するために、まずは相手の思考を再現しようとする。
ただし、自分にとって都合の良い結論を作り上げ、幻想とも呼べるそれにすがってしまっては本末転倒である。
希望的観測はできるだけ排除し、あくまで事実のみをつなぎ合わせて浮かび上がる妥当な落とし所を導くために理屈に頼るのだ。
理にかなっているストーリーを作り上げることができてしまえば、あとは自分がそれを仮の事実として飲み込みさえすれば「予測不能」「理由がわからない」事象と対峙する状況から逃れることが可能となる。
たとえ自分にとってあまり好ましくない答えに辿り着いたとしても、答えに至るプロセスに飛躍や暴論がないからこそ共感や同意はせずとも相手に一定の理解を示すことができ、私は納得することができる。
そして、いざ「答え合わせ」を行う瞬間がきても、予めシミュレーションを済ませているため感情の揺れ動きや狼狽を最小限に抑えることができるのだ。
つまり、「理由がわからないこと」にストレスを感じるのは、心の準備ができていない何かしらの事象によって激しく感情を揺さぶられるリスクを認知しておきながら、それに対してなんの対策も講じていないという、精神の安寧を図る上での危機的状況を抱え続けていることに他ならないからである。
これを解決する手段が仮説を打ち立てるための思考というわけだ。
そのため、仮説の真偽を確かめずに自己完結する理由もとてもシンプルだ。
自分が作り出した仮説の価値は「正しさ」にあるのではなく、真実を知るという少なからず自分に衝撃を及ぼす状況を見据えたときに、なるべくダメージを和らげるための防御壁として作用するところにあるからだ。
まさに、先述した
の部分を克服するためのものである。
そもそも、仮説の真偽を確かめることは仮説を打ち立てるきっかけとなった疑問を相手にぶつけることと同義であり、それが出来るのであれば最初から仮説を作る必要はないはずだ(ややこしい)。
自己完結を良しとしてしまうもう一つの理由として、仮説の対象とすることの多い「感情」はそもそも理屈の枠を超えて存在しているという性質上、いとも簡単に仮説が瓦解する恐れが高い。
それを承知の上で、精神衛生を保つことを最優先事項とした場合に自己完結がもっとも効果的な選択肢であると認識しているからだ。
他人のこころ・感情は他人がどうこうできるものではない、絶対的な不可侵領域のものであることは読者も痛感していることだろう。
感情は本能的なものだ。理性や論理、善悪といったフィルターを一切介さずに生じる、非常に原始的で強力なものである。
それゆえに、いくらこちらが理にかなった思考で考え尽くしたとしても、他人の感情を100%正しく捉えることも、代弁することできないのだ。
仮説を作り上げたとしても、見当違いである可能性を自分自身で否定できないケースも多々ある。
それでも、何も考えないでいるよりかは自分なりに一通り考えた産物としての結論を自分の中で持っておくことで、相手と話し合う場が来た時にこちらの考えを表明する際の根拠の足しにはなるだろうし、一定の安心感を得られる、という保険的な側面が強い。
だから、私は自己完結で済ませる──いや、自己完結せざるをえないと言える。
これこそが厄介で可愛げのない臆病者・黒木たらしめている元凶となっているのではないかと睨んでいる。
というのも、すでにお気付きの読者もいるかもしれないが、この内向型熟考+自己完結の思考プロセスは「自己防衛」の末に確立されたものではないかと仮説しているからだ。
では、何から自分を守っていたのか。
言うまでもなく、感情の揺れ動きによって生じる消耗や悩み、負の感情である。
2.「感情に振り回されて傷つくのはもうごめんだ」が根底にある価値観の生い立ち
ここで少し初恋の話をさせてほしい。
私は高1の時に初めて彼氏ができたが、そう長く続かずに終わった過去がある。
今でこそ冷静な視点で当時を振り返ることができるが、この失恋をなんだかんだ高校卒業まで引きずっており、くろぎのコンテンツ力(?)の一翼を担っている喪女精神や恋愛における自己肯定感の低さ、こじらせた恋愛観はだいたいその時期に培われたものになる(もっとマシなものを培え定期)。
この失恋が自分の人生で大きな意義を持っている最大の理由はその別れ方にある。
詳細は省くが、喧嘩もせず仲良く過ごしていたと思っていたら相手が突然そっけなくなり、その理由を相手から明かされることがないまま関係に終止符を打つことになったのだ。
無意味であることはわかりつつ、この時の失恋の原因をあえて分析するとすれば、「相手が初期のラブラブ感で接し続けることに疲れ、冷めた」ことにあるのではないかと思っている。
要するに付き合い始めてしばらくしても「恋は盲目」状態の私の好意が重くなってしまい、疲れ果てた相手が音をあげたという両者にとって不幸な理由である(真相は闇の中)。
※過去の出来事に対しても仮説を作り、それを形式上の事実として受け入れ、自分自身を納得させることで件の失恋を清算できた一面もあることを追記しておこう。とにかく「不確定な事柄が存在し続けること」は私にとって「様々な可能性を抱え続けた状態」と同義であり、それが非生産的なたられば思考(未練もしかり)を生み出したりストレスに繋がりやすいのが自分の弱点であると考えている。
当時は自他共に認める恋愛ビギナーだったため、相手からメールの返信が来るのを四六時中待ち、返信がきたら即レス&毎日何十往復もやりとりしていた。
さらに、ペア物ストラップを交際◯ヶ月記念日(笑)みたいなタイミングで渡したり、相手が仲の良い女の子と遊びに行くという話を第三者経由で聞くだけでめちゃくちゃ嫉妬し、それを友人に愚痴るなどする、典型的な「重い女」だった(我ながらやばすぎて莫大な精神ダメージをくらいながら自供している)。
こんな調子でかなり自分の好意が前のめりな行動で現れており、良くも悪くも「好きの感情で猪突猛進!」を体現する女だった。
こちらの好意を受け入れてくれて、なおかつ相手からもわかりやすく好意を与えられた時期はまさに幸せ絶頂だったが、別れた反動も同様に大きかった。
初めての恋愛でお花畑状態だったところから一転、別れたことで自分のありったけの好意が相手から強制的にシャットアウトされたような心地がし、ショックをより鮮明なものにした。
さらに、関係の終焉とともに気持ちのケリをつけるといった器用なこともできず、執着が同時に発生したことで別れた後も莫大な心的エネルギーを消費し続ける、という苦い経験を積んだのだ。
大学に入学し、ようやく前進した頃、私は思った。
自分の感情を馬鹿正直に相手にぶつけなければ、こんなことにはならなかったんじゃないか。
感情に振り回されて疲弊する辛さはもう味わいたくない。
感情優位・自分本位ではなく、理性的で相手を思う余裕をもつことで、互いにとって心地の良い関係を築けるのではないか。
この気づきこそが現在の私の恋愛をはじめとする人間関係における価値観の主軸となっている。
仕事だけでなく恋愛でも高速PDCAを回し圧倒的成長を果たす女・くろぎの爆誕である。
「好き」と言葉でストレートに伝えたり、好意ゆえのわがままや嫉妬のような、時に相手を困惑させるような自分本位な感情をぶつけることだけが好意を証明する手段ではない。
例えば両者の間に確立されている信頼関係や相手を慮る行動のような、好意が根底にあるからこそ成り立つものに目を向け、価値を見出すべきではないか。
どうしたら好きの感情を相手に押し付けがましくない形で伝えられるか。相手を不安にさせないためにはどんな考えを共有できたらいいか。自分の感情由来による言動によって相手の負担にならないようにしたい。
そういった諸々を意識して行動しているのがここ数年の私だ。
相手に対して不安や負の感情を抱いた時は前章で述べた思考法で対処することがデフォとなった。
どうしてその言動をとったのか・どういう感情が渦巻いているのかを無意識のうちに推察するプロセスを通して一呼吸おき、まずは自分で不満、不安を解消しようと落ち着く心理が働くようになった。
相手の立場での視点や考えを仮説という形ではありつつも考慮し、相手視点でのストーリーを理解しようと努力することで、マイナスな感情に支配されて消耗することが減った。
しかも、一旦マイナス感情を自分なりに対処できたら、相手に不安や不満を感じた事柄について問いかけずに済む。
受け手である自分さえ納得できれば、密かに存在した不穏に気づいていない相手にわざわざそれを伝えて、平穏な日常を壊すリスクを冒す必要性がなくなるからだ。
その結果、初恋の失恋以降、人とのコミュニケーションの場において突然自分の感情を爆発させるようなことはなくなった(ただ、顔に出やすいので相手に察されていることはあるかもしれない)し、喧嘩やいざこざを引き起こすようなことも滅多になかった。
つまり、内向的熟考+自己完結の思考タイプは感情優位で行動して失敗した失恋の経験を繰り返さないために確立したものであり、現に自分(場合によっては相手も)の感情的な振る舞いを最小限に抑えることに成功していると感じている。
同時に「相手に過度な期待・理想を求める」ことも無意味であり、ありのままの相手を認めることこそが一番の敬意であり愛情ではないかと思うようになった。
これは友人、恋愛どちらに対しても同じことが言える(ちなみに「非を指摘すること」は全く別の問題であり、こちらは必要である)。
恋愛関係の相談を受けていて感じたこととして、例えば「彼氏(彼女)なら普通〜〜しないのに、◯◯くん(ちゃん)はこういう言動をするから不安。本当に好きなら不安にさせないはずなのに……」という、自分の中だけに存在する「常識」という名の理想を無意識のうちに相手に求めていることによってマイナスな感情に支配され、場合によっては相手と衝突するケースがとても多いということだ。
自分の中で作り上げた虚構とも呼べる理想を相手に投影するからこそ、ありのままの相手と理想が異なった時に勝手に裏切られたと感じ、相手に不満をぶつけ、互いに傷つくのではないか。
逆に言えば、生身の相手としっかり向き合えている人同士であれば、異なる存在である互いを理解するためのコミュニケーションを取る機会が遅かれ早かれ必ずあるはずで、上記のような不満はそもそも生じないのだ。
言ってしまえば目の前にいる相手と対話することなく、「当たり前」「常識」であると思い込んでいるマイルール(=理想)に合致するかしないかでの二軸で相手を評価しようとし、場合によっては勝手に一人でネガティブな感情に苛まれてしまうのはひどく独りよがりで歪な関係性であると思うのだ。
赤の他人同士で完璧に共感し合えることや価値観が合致することはない。
自分と相性が良い・合うところが多いと感じる部分ばかりを求めて評価するよりも、差異がある部分を寛容に受け止め、理解する姿勢を持った方が異なるバックグラウンド・価値観を持った相手であっても建設的に付き合える可能性は高い、というスタンスにたどり着いたのだ。
このように、相手の置かれた状況を慮ることができずに招いた人間関係上でのトラブルに対する反省や、良好な人間関係を築く上で必要な考え方をあらゆる場面で吸収した結果、「理性的で物分かりの良い、ドライな価値観」が私にとって最善のスタイルとして確立されたことは間違いない。
ただし、「理性的で物分かりの良い、ドライな価値観」を良しとしている根底には「感情に素直になって自分が傷つくことはもう嫌だ、そうなるくらいなら最初から理性的に振舞うことで予防線を張っておいて、傷つく方がマシだ」という怯えが色濃く存在している事実は無視できない。
人の価値観に良し悪しをつけることはナンセンスなので「お前のその価値観、ありえね〜わ!」と否定する声は論外だが(多分そういう人は私の周りにはいないと思うが)、「これがくろぎの価値観なのね」と理解した上で「共感できるか否か」の部分は読者によって異なるのではないかと思っている。
(共感した理由、できない理由についてはいろんな人の率直な考えが聞いてみたいなと思うので、ぜひ感想がてら討議していただけると嬉しいです。パーソナリティが結構見えてくる議題かと思うので興味津々。脱線でした。)
特に、共感できないと考える読者の主張として考えられるのが
「感情をさらけ出すことや感情によって傷つくことを恐れているうちは相手を信用していないのと同じだ」
というものがあげられる。
まさに、だ。まさに、その点が今の自分が抱えている最大の課題ではないかと思っている。
3.感情の表出を「悪」と思い込みがちな私の弱さと、今後
きっとここまで読んでくれた善良な読者の多くが記事全体を通し、「感情的な言動=本能的ではしたない」という論調で書いているな、と感じているのではないだろうか。
しかし、私も分かっている。
感情を素直に相手にぶつけることは「悪」ではない。
むしろ、理性と感情のバランスを大事にし、特にポジティブな感情をまっすぐに相手に伝えられる人はプラスの感情を伝播させることができ、円滑な人間関係を築くことができる。
そのようなことが自然にできる人物は魅力的であり、私にはない強さを持っているということに何度も気づかされている。
しかし、私の場合は過去の失敗によるショックがあまりにも大きかった。
トラウマ、というと大げさだが、同じ失敗を二度と繰り返したくない、という回避の気持ちが強く生じた結果、感情を表出することは子供っぽく、時には相手の負担となりうる「悪いこと」だと思い込むことで、素直な感情を相手に吐露できない「可愛げのない自分」を正当化する癖があまりにも強くなりすぎてしまったのだ。
前章で「感情的になって不満や一方的な要望をぶつける前に、まずは目の前にいるありのままの相手を理解しようとする姿勢を持つべきだ」なんて大層なことを書いたが、実のところ自分が一番「ありのままの自分」を相手に見せることができていないのではないかと思っている。
無論、それは理論武装していない素直で飾らない自分を見せ、それを拒絶された時のショックを味わいたくないからだ。
なので、中には聞き分けのいい・カッコつけてる私しか知らない人もいるかもしれない。
そういう人は「なかなか心を開いてくれない」「素の自分を見せてくれない」と、私との間に壁や違和感を感じていてもおかしくないだろう。
冒頭で触れた「本当に俺のこと好きなの?」と元彼に言わせてしまったのも、結局ここに帰結するだろう。相手がわかりやすく感情を開示することこそが信頼している証であり、感情のやりとりに価値を見出していたタイプだからこそのすれ違いだったのだ。
感情に起因するトラブルへの恐れによって確立された自分の言動が元凶になるとは皮肉もいいところである。
また、感情的な言動によってむやみにこちらの感情を揺さぶるような言動をとる相手については、様子を見て距離感を測りながら接したり、場合によっては関係を終わらせる選択を選んだこともあった。
ただ、相手からすると悪気はなく、「ありのままの自分」を認めて欲しくて、私を信頼してわがままな感情も自己開示してくれていたのかもしれない。
その対峙が辛くて苦しくて逃げ出してしまった私が一番自分本位で相手のことをしっかり見ていなかったのではないか、と思うこともしばしばある。
自分が振り回され、疲れや痛みを感じるようなコミュニケーションだったとしても、それを超えた先に信頼と理解を礎にした愛情が育まれていたのだろうか。
未熟な私には何が正解か、わからないのが正直なところだ。
ただ、少なくとも、周りの友人が簡単に出来ている
「好きなら好きと伝える
「甘えたい気分の時は素直に甘える」
「辛い時は辛いと伝えて助けを求める」
といった、不必要に押し殺す必要のない自分の感情すら素直に相手に伝えようとしない、もしくはひた隠しにしようとするのは常に他人と一線を引こうとし、相手の懐の深さや人間の温かみを信じきれてない、寂しい人間になっているような気がしている。
それって私が望んでいたことではないよな、ということはなんとなく感じている。
相手との関係性や距離感、キャパシティや価値観を踏まえた上で最適な感情表現を行うことは大前提としよう。
そのうえで、傷つくことと傷つけられることを覚悟した上でありのままの自分を開示することが、初恋の時に刹那的に知ることが出来た「真の自分を受け入れてもらえる幸福感」を得られる関係性を築く第一歩になるのではないか。
そして、これを実現することこそが完璧には分かり合えない他人同士が一緒に過ごす上で最も難しく、最も喜ばしいことなのではないかと思う。
……しかしまぁ周知の通り私は頑固なので、こんなことを書いてはいるものの「じゃあ明日からは感情に素直になります!」なんてことは出来ないだろうし、最悪の場合これまでとなんら変わらないスタンスで人と関わるのではないだろうか。
むしろその可能性が一番高い。
過去の失敗を胸に今のスタイルを確立し、そこそこ自分でも納得のいく日々を送れているのに、また同じようなリスクを冒してまで今のスタイルを変えるのはとてつもない挑戦だし、そんなことする必要性本当にある?という自分も確かに存在する。
だが、一つ断っておくと今回のテーマについて記事を書いていること自体が、私自身に対する強烈な批判になっており、曲がりなりにも変わりたいと思っている自分の背中を押す意味で記事化を決心したことはここで表明すべきだろう。
内向的熟考+自己完結の思考を盾にし、感情面での消耗を回避しようとしてきた背景を改めて書き上げたことは、自分の感情を露出させることへの恐れを克服するためではなく、「感情を恐れる自分がいることはおかしいことではない」と納得できるような筋書きを用意し、自己完結して逃げようとしている狡い姿勢が根強いことに他ならないからである。
自分自身の弱さを正当化するためにこんなに字数を費やしてまで記事にし、さらにそれを公開し、読んでくれた人から多少なりとも理解してもらおうとする魂胆が情けない。だが、そんな狡さを見て見ぬ振りするよりかは前進できると信じ、記事として形にしている。
思考するな、そこに答えはない。口に出せ、臆病な馬鹿者。
私と同じような強がり人間に刺さってくれれば本望だ。
とはいえ、これ私の言いたいこととか考えてることがミリでも伝わる記事になっているんだろうか。いや、伝えるというより自分の内面の整理だから本来は伝わる必要はないんだよな。
例に漏れず1万字ボリュームのひとりごとにお付き合いいただきありがとうございました。また次回更新日にお会いしましょう。
※はてなで2020年9月28日に更新した記事を移管したものになります。
「ちょっと面白いじゃん」「いい暇つぶしになったわ」と思っていただけたらスキ❤️お待ちしております😘 もし「スキじゃ足りねぇ…結構好きだわ…これが恋?」ってなった時はポテトSサイズを奢るつもりでサポートをお願いします。ポテト御殿の建立費として活用します。