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第一回:くろぎの映画鑑賞感想文「人のセックスを笑うな」

こんばんは。くろぎです。番外編更新。

三連休初日は前からツイッターで話題になっているチェンソーマンを一気読みしたいな……と思って彼氏と一緒にいつもの漫画喫茶に行ったんですが、当初の予定とは異なり漫画を一冊も読まず8時間ほど滞在してました。なぜなら映画を3本ぶっ通しで見ていたからです(パワープレイ)。

以前から「お気に入りの映画」として彼氏が会話の中で何度か口にしていた作品のうち、漫喫で取り扱いのある映画を大画面上映しつつ各々漫画を読むか〜って感じになったんですが、そうなると私の関心は映画の方に軍配が上がってしまう。漫画を読みながら片手間で映画も見るっていう器用なことができない代わりに仕事してる時よりも集中力発揮して観てきました。

で、今日セレクトされた3つの作品なんですが、分かりやすくハッピーエンド🤩っていうのがなくて(厳密にはハッピーエンド寄りの作品は1つあった)、観た後に何かしらを考えさせるような重いパンチが一つ一つの作品にこめられているわけですよ。今まで割と気楽に見られるような映画しか触れてこなかったので、こういう感覚ははじめて。

せっかくお気に入りの作品を共有してもらったので、くろぎが映画から受け取ったメッセージとそれに対する考えを記事に残して、作品議論を交わしたいな〜と思い更新。作品をきっかけに生じた感情だったり思考は何よりも鮮度が命ですからね。

以後ネタバレ注意。まずは1作品め、「人のセックスを笑うな」からいきます。

身を焦がすような恋の洗礼を受けた男の顛末を描いた作品。画面の使い方が秀逸

一見するとタイトルのインパクトがすごいですが、中身はどストレートな恋愛モノ。一言で言うと美大生の「みるめ」と、20歳年上の既婚美大教授「ユリ」の関係の顛末を描いた作品です。英訳では"Don't laugh at my romance"となっていて、作品の内容を的確に表現しているのはこっちかと思う。

内容について語る前に、映画見てないとなんのこっちゃってなりそうなことを少し語っていいですか?私は映像知識が全くない素人なんですが、この作品はそんな私から見ても画面構図やら小物の使い方がめちゃくちゃ印象的なシーンが多くて、登場人物の心情が効果的に表現されていたのが良かったです。
一番分かりやすいのはみるめがユリと関係を持ってからまだ日が浅い頃、夜にアトリエへ一緒に帰宅したシーン。
部屋の柱で画面を中心から2分割し、ユリがソファへ腰掛けた左側の部屋は暗く寒々しさを帯び、ストーブに火をつけようとするみるめがいる右側の部屋は電気が点いていて明るい。2人の「恋」に対する熱量がありありと浮かび上がってくるのが残酷ですね。既婚者のユリにとっては一時の関係でしかないその恋に対し、そんなことをつゆとも知らないみるめが熱を上げている様子が如実に表現されたシーンでもあります。

脱線失礼、改めて内容について。

恋愛に対する「本能」と「理性」のバランスが異なる登場人物が絶妙に描かれている

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この作品自体は恋愛における何かしらの正解を導き出すとか問題提起をしたいわけではなくて、単に「性愛に突き動かされた青年の、どうすることもできない恋」の一幕を描いているだけなんですよね。ただ、作品内では性愛とは別の形の恋愛も存在していて、私はむしろそっちの方がリアルで切ねぇ〜〜ってなりました。

つまり、見る人によってどの登場人物(=恋愛観)に最も感情移入できるかが異なり、見た後の後味もそれに応じる形で変わってくる面白い作品だと思います。

劇中ではみるめに想いを寄せる大学の同期・「えんちゃん」が登場してきますが、ユリとえんちゃんがみるめに対して抱く恋愛感情が綺麗に対比しているんですよね。
ユリとえんちゃんがファミレスで会話するシーンで

「(既婚者の自分はみるめと)付き合っちゃダメかな?だってみるめくんに触れてみたかったんだもん」

とあっけらかんと話すユリに対し、

「触れてみたかっただもんって……(中略)私だって触れてみたいけど、どうしようもないし」

ってえんちゃんが呆れと困惑を滲ませて返答する(セリフはうろ覚え)んですが、私は圧倒的にえんちゃん側のヒューマンなので「アァ〜〜わかるよその自分の感情と倫理観でがんじがらめになるやつ〜〜」ってなりました。保守派拗らせ党くろぎ、健在。

お分かりの通り、ユリは本能優位、えんちゃんは理性優位でみるめに恋しているんですよね。ユリがしていることは不倫なので「不健全」なんですが、本能的だからこそ(?)作中で一番シンプルかつ正直な恋をしているように見えるし、”初めて”だらけのみるめにとってそんなユリからのアプローチがなおさら魅力的で幸福なんでしょうね。劇中のみるめとの取るに足らないやりとりとか距離感がマジでただの幸せそうなカップル。

一方でえんちゃんは「健全に」片思いをしているはずなのに、個人的には一番切ない気持ちでいっぱいになりました。
片思いしているみるめが自分以外の誰かと付き合っているっていう事実だけで面白くないのに、よりによって不倫。複雑でモヤモヤするのも当然。でも、みるめがユリの既婚の事実を知り、好きだけど会わないでおこう……と必死に気持ちを抑えこもうとして塞ぎ込んでいるときに遊園地に連れ出して「好きな気持ちに正直になれよバカ」といった旨の言葉を一心不乱にぶつけたり(ある意味この時のみるめが、想いを告げられず片思いし続けるえんちゃん自身の姿と重なって自分に対して言い聞かせてる部分もありそう)、所在が不明なユリをみるめと一緒に探しにいったりする寄り添い方が、もうほんと不器用な好意が滲み出ていて愛おしんだよなまじで〜〜〜〜〜!!!

きわめつけは一緒に探しにいったユリの所在が掴めず終いの夜、居酒屋で酔いつぶれたみるめをホテルに連れて行ったシーンですね。全こじらせ女子はあそこでえんちゃん😭😭😭😭ってなるはず。
みるめを寝かせたベッドの上でえんちゃんが飛び跳ねるシーン、ユリとみるめの事後のシーンでも同じものを見たぞ。ユリがジャンピングしてるとき、みるめは楽しげに応じていたけど、えんちゃんがどんだけ激しくジャンピングしてもみるめは酔ってるから目が覚めることはない。えんちゃんの気持ちがどこまでいっても一方通行なことが暗示されていてこの時点でもう無理です。
で、みるめに覆いかぶさって寝顔を見つめ、思わずキスしそうになるものの、思いとどまってキスせずっていうのがもう本当にクリティカルヒット。ア”ア”ア”ア”ア”ア”………しか言えない。泥酔して目が覚めないみるめにキスしてもバレないし、自分1人だけの秘密にできるのに、それでもしなかった理性のせめぎ合いと、どうしたって自分がユリの存在に勝てないことを認めざるを得なかった瞬間が色濃く出た名シーン(個人の感想)。

拗らせた恋をしがちなくろぎはえんちゃんにめちゃくちゃ心情移入してしまった。

恋と愛は別物。その感情を同時かつ別の人に抱くことは許されるのか

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ユリは飄々とした人物として描かれていて、完全に「恋(正確には色欲)」と「愛」を全くの別物として捉えているんですよね。だからその二つの感情が同時並行かつそれぞれ別の人に対して抱いていることに違和感も引け目を感じない。既婚でも悪びれることなくみるめを求めることができるし、旦那と一緒にインドへ行き、みるめの前から姿を晦ますんですよね。

ちなみに、くろぎは恋と愛の感情が別物であると認識しつつ、恋する相手がそのまま愛する相手としてイコールになります(若いからそう思えているだけかもしれないが)。なので、ユリとは真反対の位置にいる根っからの保守派人間になります。

恋と愛が同一のものではないということ自体は皆さんも理解しているとは思うし、なんならユリみたいに奔放な人っておおっぴらにするかしないかは別として、ゴロゴロいると思うんですよ。この作品では愛と恋の同時進行ですが、恋と恋の同時進行(もはやこの場合どちらも恋と呼べないと思うが)も同様。

ただ、世の中の大多数にとって、「愛は恋の延長線上にある」「恋愛感情はいわば心身の独占締結(あえて強い表現にしています)に繋がるものだから複数人・同時進行に抱くことは起こりえない」という前提が存在しているからこそ、「恋」と「愛」を1人の相手で完結すべきという倫理が成り立っているんじゃないでしょうか。

この物差しで見たとき、ユリのような既婚者が恋(色欲)の衝動に襲われたとしても、「理性」で統制した行動をとることが圧倒的に正なんですよね。けど、ユリは「本能」に素直。倫理観に囚われず、余裕ある大人の女性としての役を全うし、ピュアで若さゆえに余裕がなく、真正面からぶつかることしか知らないみるめを結果的に手のひらの上でコロコロ転がして骨抜きにするわけです。

そのため、男性がこの作品を見ると「人生経験のある女性に誘われ、後先のことを考えず極めて本能的に契った末に失恋することは、大人になるうえでの一種の洗礼であり、どこか懐かしさを感じる」という感想が出てきそうですがどうなんでしょう。

ユリを渇望してしまう「本能」と、既婚者のユリと関係を続けても苦しいだからやめた方がいいと理解している「理性」のはざまでもがき苦しんだすえに、若さゆえの熱(性欲)が後押しとなって「本能」優位な恋愛にのめり込んだみるめは、私たちにとって「恋愛経験が少なかった若かりし頃の自分」に思いを馳せるのに絶好の人物像かと思います。
このみるめの心理は不倫じゃなくても、セフレとか浮気とか、そういう「健全な恋愛」からは外れた男女の関係にも通じる気がします。くろぎ自身がそういう経験を持ってないのでそこらへんのリアルさや郷愁は推し量ることができないのですが……。

多種多様な恋愛の形があるが、当人全員が同意の上で成り立つ関係は認めても良いと思う

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そもそも、くろぎは人間の感情は本能的なものなので他人、ときには自分自身であっても縛ることが出来ないと考えています。そのため、「肉体的・精神的いずれの意味であっても他の人に気持ちが移ってしまう」こと自体は悲しいですが仕方のないことだと思うんですよ。まぁ理性による制御や思考、対話や順序を放棄し、文字通り本能の赴くまま肉体的な快楽と刺激を求めて浮気や不倫に走ってしまうのはあまりにも動物的だな〜とは思いますが。

そんな私がユリを最後まで憎めないキャラとして見ることができたのは、旦那の存在を素直に打ち明けた上でみるめを求めていたからだと思います。しかも、一度も旦那の代替としてみるめを求めていたわけではない。旦那は旦那だし、みるめはみるめ、って見ていたのがはっきり描かれていたのが個人的には救いでした。価値観の良し悪しはさておき、主義を体現する一貫とした姿勢は好印象。

両者同意の上で成り立つ関係が恋愛である以上、例えそれが世間的に批難されるような恋愛の形であっても、当人がその事実をしっかりと認識した上でもなお一緒にいたいと思うのであれば外野は何も言えないからです。みるめはユリに旦那がいることを知った上で想うことを選んだので、風のように去ってしまったユリに失恋し、呆然とすることも残当って感じです。

ちなみにこれは完全に想像ですが、おそらく旦那はユリの「恋」を容認する寛大さがある気がします。というか、極端な意見なのは重々承知の上で書くけど、ここまできたらユリから旦那に「みるめくんは生徒じゃなくて恋人なの」くらい言い切って欲しいまである。まぁその事実を黙っておく(保身のために隠そうとするのとは別の意図がある)のもユリの立場なりの愛かもしれないが、全員納得の上で初めて関係が成り立つという私のポリシーでいくと旦那公認であって欲しい。旦那が事実を知らない以上、まだ旦那が傷つくという可能性が残っているので……

話を戻します。容認、というか、干渉しないというか、なんていうんでしょう。ユリが誰かに「恋」していたとしても、もはや旦那にはその相手と同じ土俵で戦うという発想がそもそもないので割とどうでも良いんじゃないでしょうか。
旦那とユリの間に「恋」はなくても、とにかく「愛」を実感できているからこそ結婚生活が成立していると思います。2人のやりとりのシーンは数少なかったものの、旦那はわかりやすく「愛」の塊として存在していたし、だからこそユリはその旦那と結婚したんだろうなと思います。皮肉にも、奔放な人ほど結婚するときに「愛」を重視する気がします。それが一番揺るぎないものだと自分自身が一番理解しているからです。
事実、みるめと恋しているからといって旦那を邪険に扱う様子は一切描かれていなかったので。
(まぁ相手からの揺るぎない愛を礎に他人と恋に勤しんでいる時点で旦那への裏切りで不誠実だ、って声も出てくると思う)

仮にユリがここで「旦那なんていないよ(大嘘)」とか「旦那とは別れるつもりなの(大嘘)」なんてほざき始めた瞬間この作品は瓦解していたし、途中で流し見モードに変わってたと思う。相手を欺き騙すことでつなぎとめる関係は、自分以外の誰のことも尊重していないからです。恋愛以前に人間関係として破綻している。それをフィクションだから!禁じられた恋💖キラキラ〜✨みたいに語る作品本当に無理なんですよね、人として筋を通せと喝を入れたくなる(過激派)。

なんか久々に拗らせくろぎ論を書いた気がする。
「好きの気持ちだけでは成就しない大人の恋愛」というのを描いた作品として、甘苦い映画だなと思いました!残り2作品も感想文提出します。

「ちょっと面白いじゃん」「いい暇つぶしになったわ」と思っていただけたらスキ❤️お待ちしております😘 もし「スキじゃ足りねぇ…結構好きだわ…これが恋?」ってなった時はポテトSサイズを奢るつもりでサポートをお願いします。ポテト御殿の建立費として活用します。