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58.「努力って報われるの?」

こんばんは、くろぎです。本日も昨日に引き続き余力があったので更新します。めでたいね🎉💃

今日久々に会社へ出社したんですが、出社の電車の中で急にガトーショコラが食べたくなってケーキ屋に寄ろうか本気で悩んでしまった。昔と比べ、甘いものは少し食べれば満足する体になってしまったんだけど、定期的にがっつりした甘味を補給したくなるのは頭が働いている証拠ですかね🤔

さて本日のお題は投稿されたてほやほやのこちらで。

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シンプルながらにも奥深い問いですねこれ。風呂上がった途端ぽかぽかになってしまってめちゃくちゃ眠くなってしまったのですが気合いを入れて自論を語っていきます。

「努力は必ず報われる」とは限らない。が……

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悲しいかな、シンプルにお題へ回答するとこうなりますね。

とはいえ、何かに取り組む際に「この努力が報われないかもしれない……」と常にマイナスに考えている人はまずいないと思っています(たまに不安になることはあるかもしれませんが)。無論、私たちが努力できるのは目標を達成することに最大の意味があり、そのためのモチベーションがあるからです。誰しも、努力が実を結ぶことを期待しているわけです。

当然くろぎも24年間の人生において努力してきた場面というのは幾度もありましたが、結果として努力は全て報われた……つまり、全て自分なりに納得のいく成果を収めています。

「さっき努力は報われるとは限らないっていってたのにくろぎは全部報われたってどういうこと??『私の人生は順風満帆です』ってことが言いたいのか??」というヘイトの声が聞こえてきそうですが、ちょっと待ってくれ。

「努力が報われる確率」を自ら高めることは可能

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この記事で伝えたいのは、「報われる努力」と「報われない努力」にはある違いがある、ということです。

くろぎは特に学生の時はかなり負けず嫌いだったこともあり、「努力するからには何がなんでも結果を出してやるからな。結果を出せない努力は努力とは呼べない。結果を出して初めて努力したと胸を張って言える(過激派)」という考えの持ち主でした。念のため断っておくと今はもう少し丸いです。結果を出すことが全てではないことも人生にはあるからです。

少し脱線しました。こんな調子だった私が何かしらで努力して目標を達成した時のことを振り返ると

①成功に対する執念(生半可な覚悟を持たない)
②何が何でも成功するための戦略(結果に繋げるための道筋を立てる)
③後悔する余地を残さない試行(やれることはやり尽くす)

の三種の神器(?)が揃っていたことに気づいたんですよね。
このなかでも特に②の成功するための戦略……つまり努力が報われる確率を少しでも高めるための戦略設計がカギだと思っています。

最も分かりやすい具体例を挙げると大学受験の時の志望選択も立派な戦略に基づく決定だったと思っています。

高2に進級するタイミングで大学受験の志望コースを決める必要がありました。この時、担任をはじめとする多くの教師が「教科数の都合上、後から国立志望から私立志望に変更することはできるが、私立志望から国立志望に変えることは難しい。最初から私立に絞るのはもったいないのでよほどのこだわりがなければ国立を志望した方が可能性の幅が広い」と話していました。しかし、国立志望か私立志望の二者択一を実際に迫られた時、私はすかさず私立専願の道を選びました。
確かに教師の言っていることはもっともですし、実際に国立志望として最初は勉強し、最終的に私立志望に変えた友人もいました。

それでも私が最初から私立専願を選択したのは「壊滅的に苦手意識のある理数科目を受験で使えるレベルまで克服するために時間を割いて勉強するよりも、最初から理数科目をバッサリ切り捨て、得意である文系科目に特化して勉強した方が総合の偏差値で見た時に難関大学に受かる可能性は高い」と判断したためです。

思惑通り、最初から三科目に絞って勉強することができたおかげで全科目の成績を底上げすることができ、志望選択をした高2当時では志望校として検討すらしていなかった、全く手も足も出ない大学に合格するという戦略勝ちを収めています。

「努力不足」ではなく「限界値」を超えた目標だったのかも、という視点は案外大事

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くろぎの具体例は、解釈の仕方によっては「努力の障壁が高い選択を最初から避けているだけ、勝てる戦しかしていないだけ」とも言えるかもしれないですね。

しかし、それも「努力が報われるか否か」を大きく左右する要素の一つだと考えています。

努力が報われない時の原因を分けてみると

①純粋に努力が足りなかった
②努力の方向性がズレていた(やみくもにやってしまった)
③目標がどうしても自身の限界値を超えているところにあった

あたりかなと思っていて、特に③の「限界値を超えていた」というケースが人生においてなんら珍しくないということをいかに早いうちから認められるかも大きい気がしています。くろぎの場合、数学を大学受験で戦えるレベルで理解することは自身の限界を超えていると早々に判断(諦めとも言える)していたというだけの話です。

人は頑張ればなんでもできる、と信じたいところですが、正直、どんなに正当に頑張っても自分が思うようなレベルや成果に繋がらないことはザラにあると思っています。

それは努力が足りないとか、自分がダメだからとかではなく、それこそ一人一人が持つ得手不得手のようにどちらかというと生まれ持った能力や特性の差異(優劣ではない)、もしくは環境など自分1人だけではどうしても変えることが難しい要素に由来している気がしています。

サボったわけでもないし、目標を達成するために必要な道筋もしっかり描いて努力してきたのに報われなかった、というケースの場合は「最善を尽くしても届かなかった、今の自分の限界を超えた挑戦だったんだな」と割り切ってしまうのが精神衛生的にも良い気がしています。

これは「最善を尽くした」と言えるほど努力をした人であればもはや当初想定していた成果につながらなかったとしても、なんらかの形で納得できる、別のゴールを掴むことが出来ているとも思うからです。きっと、そのゴールも努力する前の自分では達成し得なかったものではないでしょうか。報われなかった事実を悲観するのではなく、そちらにフォーカスしてしまったほうが、「努力は無駄にならなかった!」という結論に至るんじゃないかなと。

ただ、少々厄介なことに「自分の限界値」は実際にやってみないと把握することが出来ないケースが往々にしてあります。自分で「これくらいは出来るかな」と見積もっている以上にできるかもしれないし、逆に思ってるほど出来ないかもしれない。

だからこそ若いうちに失敗を恐れずに色々挑戦してやってみろ、って耳にタコが出来るほど言われているんでしょうね!自分が精一杯努力したらどれくらいのことは出来て、何が難しかったのかを知っていること自体が人生を自分で切り拓く時の判断基準の一つになるんじゃないかと思っています。

とはいえ私はやっぱり欲張りなので努力したこと・挑戦したことは紆余曲折あったとしても最終的には「報われた」と思えるようなハッピーエンドがいいです!!なので、どんな状況に置かれたとしても自分にとって納得のいくモノに変えていくパワーと強い意志、行動力は忘れずに生きていく所存。

以上!

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