第四回:くろぎの映画鑑賞感想文「リリイ・シュシュのすべて」
こんばんは。くろぎです。
漫画喫茶で観た映画3本のレビューを書き終えたと思ったら即4作品目です。
おそらく、何度か繰り返し観て初めて気づけることもありそうな気がしますが、初見時点で書ける事をまとめようと思います。
作品は「リリイ・シュシュのすべて」です。原作は未読なので映画知識のみ。ショタコンの気質はないですが市原隼人がベリーキュートでした。例に漏れずネタバレ注意。
語るべきポイントはかなり多いんですが、この記事ではめちゃくちゃ焦点を絞って話します。
この作品で注目すべきは中学生の犯罪・支配構図の凄惨さではない
おそらくこの作品を見て後味の悪さを感じたり、不快な気持ちになるとすれば、星野による歪んだ生徒間支配/被支配構図下における犯罪行為の痛々しい描写と、分かりやすく救われたように見える登場人物が1人もいないように見える衝撃から生じているのではないでしょうか。
家と学校くらいしか生活の場がないような田舎に暮らす13〜14歳の中学生が狡猾かつ残虐にも万引き・援交斡旋・強姦といった犯罪に手を染め、その結果自殺者が出てもなお見て見ぬ振りの教師しかいない鬱屈とした学校。こういった環境が浮き彫りにする若者の凶暴な攻撃性・残酷な集団心理・社会問題といった側面に焦点を当てることは作品を理解するために避けて通れないのは間違いありません。
しかし、この映画が一番映し出したかったのはそこではないと私は思います。それらの表現がやや過激なほどに映されていたのは、その分主題の影を色濃くさせ、彼らを蝕んだ深刻性を暗示させるための装置に過ぎないからです。
助けを求める術も、受け止めてくれる相手もいない辛苦が制御不能な「自傷」へと突き動かした
本当に注目すべき部分は星野が豹変したその根本的な背景です。彼の行為は結果的に他者への攻撃となっていますが、その本質は「自傷」と変わらないと私は捉えました。
優等生から不良(という表現では弱いが)への堕落、友人だった蓮見への下僕同然の扱い、初恋相手である久野への強姦共謀、そして蓮見が所持していたリリイシュシュのアルバム「呼吸」を真っ二つに割り捨てる行為は特に顕著かなと思います。
つまり、作中の暴力的な行為は全て、星野が内包するあらゆるモノを外に向けて自己表現する術を中学生という幼さゆえに知らなかったことに加え、それを受け止めてくれるはずの存在や居場所が欠落したことで、破壊衝動に飲み込まれる他なかった星野なりのSOSだったと解釈できます。
学校での出来事は一見すると星野を悪意ある加害者として見てしまいそうですが、星野もある種被害者だったということです。
そして、その点を語るうえで強調すべきことは蓮見と星野は根本的には全く同じ背景を共有しているということです。その事実こそが学校では「支配/被支配」の関係であった星野と蓮見が掲示板・リリフィリアで共鳴し合い、楽曲にまつわるやりとりを生活における唯一の拠り所としていた最大の根拠となります。
この作品ではそこまで彼を追い詰めた境遇に目を向けるべきではないでしょうか。そうすることで初めてリリイシュシュの楽曲が彼にとってどのような存在だったかを解釈することが出来ると思います。
蓮見も星野も「家庭」に居場所がなく、過負荷と分かっていても一人で抱えるしかなかった
星野と蓮見が共有している背景とは何か。
答えはシンプルで、蓮見も星野はどこにも居場所がない。特に、「家」に居場所がないことが最大のポイントになります。
蓮見の場合、母親が再婚し、新しい父と弟のいる家に住んでいます。
星野は中学1年の夏休みに家で経営していた会社が倒産し、一家離散に至ったことが明らかになっています。
ただし、蓮見が星野の家に泊まりに行った際、浴室に父親用のシャンプーが置かれていなかったシーンから、夏休み以前から家庭内では不穏な空気が流れていたと考えられます。
中学生という多感な時期における家庭環境が自己形成に及ぼす影響は、おそらく私が想像する以上のものだと思っています。何不自由ない家庭で過ごしてきた私が何を語っても現実味のない言葉になりそうなので文章にするのもおこがましいのですが、
家と学校くらいしか生活の場がないような田舎に暮らす13〜14歳の中学生
先述の通り、彼らにとっての世界って、家と学校の二つしかないんですよ。そして、それぞれの世界は全く異なる顔を持っています。
学校は疑似社会です。閉鎖的な空間という特殊性を帯びているものの、概ね他人と共同生活を送って社会性を養う場として機能しています。
しかし、社会に出て久しい大人の私たちであっても悩むことがあるように、中学生の彼らも同様に人間関係や様々な経験を通して壁にぶつかる瞬間が必ず発生します。そんな時に最も揺らぎ、傷つき、瓦解する恐れのあるものが「自分を自分たらしめているモノ」ではないでしょうか。自分の心身そのものはもちろん、性格や価値観、感情、嗜好……。
社会との接触は必ずしも自分にとってプラスのことばかりではありません。時には否定・拒絶され、自分を摩耗していく。ストレスや怒り、悲しみといった負の感情を引き起こします。
それでも彼らが紆余曲折しながら乗り越え、まっすぐ成長できるのは家庭という居場所が果たす役割が大きいと考えています。
正常(って言い方も適切か分からないが)に機能している家庭であれば、例えば
「無条件な愛情」
「ありのままの受容」
「安寧」
といった要素と紐づけて語ることができるでしょう。簡潔に言い換えれば、「自己の存在や確立を脅かすような要素がない」のが家庭という居場所です。そして、絶対的に味方と思える家族との温かみのあるコミュニケーションで得た安心感や愛情、共感や気づき、自己内省こそが彼らの血となり骨となり、社会(学校生活)に立ち向かう自信や覚悟の礎になるといっても過言ではありません。
しかし、蓮見と星野の場合、家庭が上記のように機能していないことが読み取れます。思春期の男子中学生はもとより家族とのコミュニケーションに反抗や恥ずかしさを覚えるような時期ですが、彼らの場合はコミュニケーションを望んでもできないという深刻な状況だったのです。
蓮見の場合は赤の他人である父親と弟が増え、家にいるはずなのに疎外感を覚えます。
星野の場合、夏休み以前は一緒に住んでいる母親や祖母が父親や会社関連のことで気を揉んでいることを察している以上、星野は甘えることなく気丈にふるまうことが多かったのではないでしょうか。そして、一家離散後に誰に引き取られたのか描かれていませんが、そのころには完全に家族に心を閉ざし、コミュニケーションは遮断しきっていたのではないでしょうか(理由は後述)。
すると、生活の中で蓄積されていくモヤモヤや不安、助けを求める声などを発信する相手として「家族」が正しく機能しない二人は、中学生が抱えるにはキャパオーバーな負の感情を一人で抱える他ない境遇に置かれていると言えます。
こうしてどんどん内側に、自分ひとりの世界に閉じこもってしまうのです。学校と家以外の場所に救いを求める、という発想を私たちが思い浮かべるのは簡単ですが、田舎に住む中学生の彼らにとってそれが世界の全てである以上、そのような解法に辿り着くのは極めて困難でしょう。自分の力で境遇を変えることが出来ないことを理解しているからこそそれがどんなにつらくても、一人で抱えるしかなかった。
そうして限界値を超えてしまった結果が2学期以降の星野だったと考えられます。
星野が豹変した決定打は自分が苦しんでまで「優等生」でい続ける無意味さを悟った沖縄の交通事故
正直、ここまで話した家庭環境の不遇さだけでも星野が豹変した根拠になるのではないかと思います。が、あえて補足するのであれば、決定打となったと思われるのが沖縄旅行の終盤に目の当たりにした交通事故だと私は思っています。かなり主観的な解釈になるため、他の解釈も聞きたいところです。
この交通事故のシーンでは運転手の妻が「夫は悪くない、急に飛び出してきた向こうが悪い」と発言したシーンが二度挿入されています。一度目は事故現場で事情を聞かれた奥さんが話した様子。そして、救急搬送を終え、星野らが事故現場から離れた後、なぜかもう一度奥さんが同様に話すシーンが入ります。
この二度目のシーンは、星野が「夫は悪くない、急に飛び出してきた向こうが悪い」という奥さんを頭の中で反芻している様子を表しているのではないかと思いました。
人は想定外のことが起きたときや窮地に陥ってしまうと、とっさに自分を守ろうとする行動をとります。これは当然の本能です。
交通事故も同様で、事故直後というのはどんな人であれ気が動転するため、社会的な正しさや体裁を気にするようなことは言えません。
つまり、奥さんが発した言葉は自分の夫が人を殺してしまったという事実をなんとか自分にとって最も都合の良い形で解釈するための自己防衛から来ているものだと考えられます。奥さんは淡々と「相手が悪い」としか繰り返さず、轢いた人の心配よりも自分の車に積んでいたパイナップルを拾い集めるのです。
鑑賞している私がそう感じたのと同様、この奥さんの発言を聞いた星野は「責任転嫁」の要素を感じ取ったのではないかと思います。そして、その「開き直り」という狡い対処の仕方に斬新さと衝撃を覚えたのではないでしょうか。
おそらく、彼は潜在意識下でずっとそうしたかったものの、それを「優等生」としての自我がギリギリで制御し、それ含めたあらゆる黒い感情を一人で抱え込もうとしていたのではないでしょうか。それほどにまで、星野はぎりぎりの状態だったと考えられます。
この出来事が星野の中にすでに存在していた失望とリンクさせて考えたとき、一つの結論に辿り着いたのではないかと思います。ここで私がいう「すでに存在していた失望」とはなにか。これは映画では一切描かれていないため推測に推測を重ねた話になります。
正式に一家離散したタイミングが沖縄旅行の前か後かは不明ですが、いずれにせよ沖縄旅行に来るまでにも家庭内では両親が激昂し、耳障りな口論が頻発していたと考えられます。
そして、それを星野は嫌というほど耳にしていたのではないでしょうか。会社の倒産が家族離散の発端であるのであれば、金銭・財産に絡む話や親権にまつわる、きわめて生々しく、星野の存在価値をも脅かすような話が中心であることも容易に想像できるでしょう。
そこには親としての愛情や体裁は一切なく、互いの都合しか考えていない主張が飛び交っていた。星野は「両親像」から大きくかけ離れた2人の「人間的な醜悪さ」の一面に絶望していたのではないでしょうか。
元々いじめられていた星野は同年代と比べ、人間の醜い一面をすでに知っていたと考えられます。だからこそ、そんな一面を両親も持っていることがあまりにもショックだったのではないでしょうか。中学生が一人で受け止めるには重すぎる現実です。
そこに追い打ちをかけるように沖縄の交通事故です。奥さんの発言をきっかけに、世の中には自分の都合しか考えない身勝手な狡さが平然と蔓延っていることを悟った瞬間、星野がこれまで良しとしてきた何かが崩壊したのではないでしょうか。
元々裕福な家に育っていたこともあり、おそらく一般家庭の子供よりも体裁や「こうあるべき」というものを大事にしてきた場面が多かったのではないでしょうか。「優等生」として名が通っていたのが一番わかりやすいですよね。その分、その反動も大きく表れてしまった。
どこにも自分の居場所はないし、誰も自分を守ってくれないし、結局大人は自分が一番大事。それが分かっているのに、自分だけこのまま一人で抱え込んで苦しみながら「優等生」としてふるまい続けることに何の意味があるのか、と。
「悪いのは全部、俺の周りの人間だ。」
そんな自暴自棄にも近い結論に辿り着いた瞬間、彼を優等生たらしめていた道徳や倫理が一気に瓦解したのではないでしょうか。そうなってしまえば最後、あとは内面にため込み続けた負のエネルギーを破壊衝動に乗せるがままです。
クルージング船で万札を投げ捨て笑みを浮かべたのは破壊衝動への第一歩でしょう。
目を伏せたくなる現実と、そこに寄り添う「母」なる音楽のコントラスト
お待たせしました。ここからは蓮見と星野が傾倒したリリイシュシュに関する解釈を書こうと思います。
蓮見も星野も現実世界に居場所がないと記述しましたが、彼らには唯一拠り所となるものがありました。それこそがリリイシュシュです。
中1の時、蓮見が星野の家に泊まりに行った夜にリリイシュシュを教えてもらったことをきっかけにファンになったといういきさつすら、この後の2人に待ち受ける運命の非道さをより印象付けるように感じます。
作中ではリリイシュシュの楽曲が幾度も使用されていますが、中1の楽しかった頃の思い出にも、蓮見が暴力を受けているシーンでもリリイシュシュの温かさと神秘さ……全てを包み込んでしまうかのような美しい曲が流れています。これはどんな日常においても蓮見がそれらの曲と共に過ごしてきたことを意味しており、それを私たち観客は追体験しているのです。
特に後者は映像と音楽の不一致感がかえって蓮見がリリイの楽曲だけを拠り所に必死に現実を耐え忍ぶ、残酷な様子が表現されているように感じられます。星野がCDを割ったのと同時に音楽の再生がピタリと止むのも、眼前の現実に引き戻される感じがして、めちゃくちゃきついですね。
ちなみに、リリイシュシュのほかにもクラシックや沖縄旅行で聴いた島唄も各人物の心情の揺れ動きと結びつきのあるシーンで流れていますが、これらの使い方も上記同様でしょう。
このような作中での楽曲の使われ方、そして掲示板で「楽曲の解釈」という形を通して自身の吐露を行っている様子から、本来であれば「家庭」に求めるはずの居場所を、蓮見と星野はそのまま「リリイシュシュ」に見出していたのではないかと思います。リリイシュシュは母であり、どんなに辛く歪んだ今の自分であってもありのままで受け止め、寄り添ってくれる絶対的な存在なのです。
そのため、蓮見と星野はリリイの楽曲を聴いている間だけは「エーテル」によって自分が一人で抱え込むしかない内側の全てを慰め、浄化してくれる心地を覚えているんじゃないかな、と思います。おそらく、他のファンは蓮見と星野とは全く違うエーテルを感じていると思います。
概念的な話になりますが、受け取り手の数だけ生み出されるものがエーテルであり、クリエイティブの持つ可能性そのものだと思います。
てか、これは作品の解釈とはズレるんですがシンプルに曲が良すぎる。何度も見たくなる気持ちがわかる。
どうしようもない現実を映し出しながらこの曲が流れるというアンバランスさがかえってリアルでクセになりそう。今日一日ずっと呼吸収録曲を再生しています。
蓮見が星野を殺したのは「正当防衛」の心理
これが最後です。
掲示板で心を通わせていた相手が星野だと知った蓮見はコンサート終了後に星野をナイフで刺し殺します。
これは星野が豹変した理由と同じで、「殺した」というアクションそのものではなく、蓮見の内側の動きに注目すべきでしょう。
蓮見の場合は「自己防衛」の心理が働いた結果の殺害ではないでしょうか。いわば、正当防衛の感覚に近いかもしれません。
すなわち、リリイシュシュの楽曲を自分と同じように愛している青猫は、自分の苦しみに共感してくれるような存在であることを無意識のうちに期待していたのではないでしょうか。青猫は蓮見にとって一つの「居場所」だったのです。
しかし、無情にも青猫の正体は現実で蓮見を「不条理な人間の残酷さ」によって追い詰めている張本人、星野だったのです。その瞬間、掲示板で語っていた青猫の言葉やリリイへの気持ちが「冒涜」そのものであり、良き理解者であるという信頼の気持ちも裏切られたという絶望に襲われたのではないでしょうか。
言うまでもないですが、星野のリリイに対する気持ちは決して冒涜でもなんでもなく、蓮見と全く同じです。ただ救いを求める一心ですがっていたのが真実です。
とはいえ、蓮見は星野の背景まで慮る発想も余裕もありません。夢物語なのは重々承知ですが、もし、星野の豹変の根源にある苦しみが蓮見の抱えているものと同じ、「居場所のなさ」であるということに蓮見がどこかのタイミングで気付いていれば、物語の結末は変わっていたかもしれません。なんなら、星野が青猫であることを知ったこのタイミングが星野を救う最後のチャンスだったかもしれません。
しかし、あまりにも衝撃的な事実を前に、蓮見は咄嗟に「このままでは唯一の心の拠り所すらも星野に踏みにじられてしまう」という危機感に突き動かされたのではないでしょうか。フィリアが自分であることが相手にバレたら。最も理解し合えるはずの2人が、相手を殺してしまうほどの憎悪と怯えに駆られてしまったのです。それこそがこの物語最大の悲劇でしょう。
そういった点含めて、最後までひたすらリアルが追究されているのがよかったです。どこかのタイミングで見返そうかなと思います。
今回一切触れなかった津田ちゃんとか久野さんの話とかもちゃんと書きたいよね。。。
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