「■■」という文章について
2024年12月3日、午前0時13分。
珍しく締め切り間際でないこの文章の書き始めは、ほんの些細なきっかけに由来するが、それについては後で話すことにしようと思う。
2024年12月16日、午後8時18分。
タイトルを「■■■■■」から「■■」に変更する。
せっかくの良い機会だ。この機会とともに、もう全部終わりにしよう。
もし、これが一時の迷いで、どこかで気が変わったら。
次の段落にはこの記事のタイトルを変更した旨を記載しているだろう。
2024年12月25日、午前0時25分。
精神が安定した。安定した上でこのタイトルがこの記事にはふさわしいと思う。
風呂が沸く音が静かに部屋に響いた。
2024年12月31日、午前3時31分。
記事のタイトルを変更した。「■■」。何も隠さないこのタイトルが相応しい。
伝えたいことは変わっていないが、だからこそ躊躇する必要はないだろう。
(「■■」より抜粋)
「■■」という文章を書いていた。
誰かに向けた、手紙のような。
自分に向けた、日記のような。
そんな文章を。
これまでの年末には、個人的に当たり障りのない文章を投稿してきたつもりだ。
特段面白いわけでも無く、読む価値こそ人によってはあったら良いなとは思うけれど。
好きな音楽について書いたり、
自分の作った曲の紹介をしたり、
人にエールを送ったり、
無茶なチャレンジをして失敗、原稿を落とした年もあった。
どの年がどの年かももう覚えていないけれど、あれから5年が経った。
経ってしまったと表現した方が正しいかもしれない。
折角文章を届ける機会なのだから、今日は文章の話をしようと思う。
私は昔から、「何かをやり遂げる」ということが苦手だった。
正確に言うと、苦手になった。
昔は日記とか、変な習慣とか、長編ゲームとか、とにかく「続けること」が好きだった。
今の私を知っている人からすれば「嘘をつくな」と笑われるかもしれない。
ただ、本当に好きだった。
積み重ねていく感覚や強くなっていく感覚。
そう、長編ゲームのように自分が強くなっている気がして楽しかった。
特に、「何かを書くこと」を習慣としていた。
語彙が増えるのも楽しかったし、考えることも好きだったから。
それに、
いつかその考えを誰かに伝えられたら、
伝えられる相手に出逢えれば、
そう考えていた。
文章を書くとは、「続けること」である。
自分の考えや体験したことを文字に起こして、最後まで書く。
最後まで書かなければ伝わらないから書き続け、
書き終わった後も、伝えたいことを伝えられるまで表現を考え続ける。
いつからか、そんな「続けること」が苦手になっていた。
文章だけに限らず、考え続けるのも、向き合い続けるのも出来なくなっていた。
長編ゲームも、習慣も、日記も、時間が止まってしまった。
特に、これと言って原因があったわけではない。
飽き性なのか、緊張なのか。
「惰性」までいけば続くのだけれど、そこまで行くのに随分と時間がかかる。
また何より、「惰性」になる直前には決まって体調を崩してしまい、回復した頃にはもう惰性にはなり得なくなっている。
そんな自分が嫌になって、続けることを諦めているのかもしれない。
いつからか、本を読めなくなった。
先の苦手のせいなのか、はたまた全く関係のない理由か定かではないが、気がついた時には本のページを開くことすら億劫になってしまった。
買いたい本を買っても読めない。
あらすじや紹介文には惹かれるのに一ページ目で止まる、必要のない文章が読めない。
どれだけ読もうとしても、目が滑り、文字が滲む。
記憶が保てず、時間の経過が邪魔になる。
読みたいという感情が来るよりも先に、感覚的な辛さが来てしまう。
それが何よりも辛かった。
高校に入って、改めて文章と向き合うことになった。当時の自分にとって生きる術を掴むためには、国語の能力を保たなければならなかったから。
本は相変わらず苦手のままだったけれど、国語の文章は読めた。
きっと短かったのと、「本」という形状じゃなかったのが大きかったんだと思う。
目に入り、脳に熔ける感覚。
短い時間だけでも、それを感じられるのが嬉しかった。
これなら「やり続けられる」と思った。
それからは国語の試験の文章をよく読んだ。
どれだけ他の教科の成績が悪くなっても、国語の文章だけを読み続けた。
結果、大学受験は失敗した。
受かったのは友達の勧めで受けた国語受験の大学だけだった。
バイトを始めて、サークルに入って。
より一層文章と向き合うことになった。
別に周囲にはもっと面白い文章を書ける人がいるし、魅力的な言葉を紡げる人がたくさんいる。だからこそこの企画が続いているわけで。
ただ、なまじ謎解きの知見があったから、
それなりに文章を書くスピードが早かったから、
テキストに関わる仕事をする機会ができた。
メインは校閲だったけれど、少しずつ書くようになった。
大して長い文章でもないけれど、少しずつ書けるようになった。
文章と向き合えるようになったのが、何より嬉しかった。
ある夜、本を買った。
漫画以外の本を買うのはいつぶりだっただろうか。
文章と向き合う必要ができて、表現を知りたくて。
長い本はまだ読める気がしなかったから、短歌の本を。
読めればいいなと、期待を込めて。
目に入れ、考える。
文字が脳に熔ける感覚。
気がついた時には朝になっていた。
短歌だから本来そんなに時間はかからないんだろうが、なぜか日が覗いていた。
1ページに書かれたのは17音だけ、読書好きには笑われるだろう。
向き合った文字の数は少ない、本当に少なかった。
けれど、それでも、
数年ぶりに私は、本を読み切ることが出来た。
今年は文章を書いた。要約するとそんな一年だった。
色々な作品を作らせてもらったけれど、そこにはいつも文章がいた。
あれから私は、本が読めるようになった。
ちょっとずつ、読めるように回復した。
だから、読んだ。
『硝子の塔の殺人』とか、
『世界で一番透き通った物語』とか、
流行ったからというなんともミーハーな理由ではあったけれど、面白かったし美しかった。それらの感情を享受できる状態にまで回復して、良かったと思う。
相変わらず目の滑りや滲みはあるし、「本」という形式にも一瞬の抵抗はある。
この体質とは一生付き合っていかなければならないのだと思う。
ただ、付き合えると思えるようになった。
何度でも読み返して、付き合っていこうと思った。
時間がかかっても向き合ってくれる人たちに出会えた。
決して惰性ではなく、向かい合い続けたいと思った人にも、出会えた。
そう思えるようになった今だからこそ、私は文章を書けるのだと思う。
私が積み重ねた文章で、考えを伝えるためにも。
そんな過去を振り返っていたら、「■■」を書く手は止まっていた。
やっぱり飽き性なのかもしれない。
割と回復したはずだし、今度こそ書けると思ったんだけど。
また、最後まで書けなかった。
そのせいで、来年も「惰性」は続くことになってしまう。
何度かやった「挑戦」も失敗に終わったわけだ。
途中まで書いた「■■」は、またの機会に。