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開拓地にて
先日、青森県立美術館に行った際に、青森出身の写真家である小島一郎(1924年~1964年)の作品を見て感銘を受けた。
小島は遅咲きの写真家で、彼は高校卒業後、従軍し、敗戦後、復員してから、青森の風土を撮り始める。
雪に覆われた一本道を歩く人々の後ろ姿、津軽の稲の刈り取りの風景。青森の自然とそこに生きる人を題材にした写真はたちまち評判となった。当時の人気作家だった石坂洋次郎も小島の写真を高く評価する。石坂が序文を書いた写真集は新潮社からも出版されたこともあり、小島は東京で作家活動を本格的に行うために上京する。
だが、青森の風土を題材とする小島は東京の環境での作家活動に行き詰まってしまう。起死回生の策として、小島は北海道の自然を撮るために北海道の撮影旅行へ行く。
だが、そこでの過酷な撮影がもとで体調を崩し、小島は亡くなる。
39歳の若さだった。
小島の撮る青森の自然は、大きく、人間に対して無理解で、そして、恐ろしい。人智の及ばない存在というのはこういうものなのだと目の前に突き付けられるような思いがする。
小島の写真は自然だけではない。青森に住む人々の姿も捉える。
私は大間に住む深い皺が刻まれた男の写真が印象に残った。
写真に写る中年男は手拭いを頬かむりして木材を抱えている。目は穏やかだが、苛烈な自然に日々対峙し、深い皺が刻まれた顔は厳しい。
会場の展示で、もっともショックをうけたのは、小島が写真を撮った八甲田に移住した開拓団のルポだ。
開拓団とは、敗戦後に満州から青森県に引き揚げて集団で農地耕作をおこなった人々のことを言う。
展示されている週刊誌でレポートされた彼らの生活は壮絶だ。
彼らが肉や魚を食べられるのは、年に数日しかなく、栄養失調で倒れる村人が多発し、その対策として、開拓民たちは共同でヤギを買い、その乳で人々は栄養を補っていたのだという。
週刊誌の記事には、小島が撮った村民が日々の楽しみのために、民謡をつくり、踊っている姿がおさめられていた。その姿は日頃の鬱屈を晴らすような踊りでどこか寒々しく感じる。
物語ならば、幸せな結末が訪れるが、現実は無慈悲だ。
入植から7年後、開拓団全員は自然の厳しさに耐えきれずに、この村を離れたのだという。
開拓民の方々がどのような思いで、この土地をはなれざるを得なかったのか。
開拓団の方々がここまでのことを行なっても、成果が得られず、土地を離れなかったことへの無念さ、怒り、悲しみ、虚しさは想像を絶する。
現在ネットでそのあたりを検索すると、SNSに八甲田山のふもとに開拓の跡がアップされていた。誰かに教えられなければ、そこに村があったことは分からない。
土地は歴史や人々の情念を含んでいると思っていたが、それすらも思い上がりなのかもしれない。見えない思いすら、自然は吹き去ってしまうものなのか。
いや違う、小島の写真は彼らの姿をとどめているではないか。一瞬であっても、その感情を残していたではないか。
その際には小島の写真は小島自身の意図を越えて何か大きなものを背負うのだ。
作品は写された人も含む、だから作者よりも作品は大きく、忘却にあらがう。
参考文献
小島一郎 青森県立美術館
https://www.aomori-museum.jp/collection/kojima/
※こちらは別の開拓団の記事
「核燃の村」に残る満州の記憶、開拓の跡 「国策」に翻弄された青森県六ケ所村