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いつまでたっても天使は囀らない 1

オリジナル小説です。
不安に襲われた時にオフィスビルの階段を降りていると、この下にこの世ならざる光景があるのではと思えて仕方なかった時に書いてました。
シリーズものなので、この後も続きます。

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 昔、成功者はみんな挑戦している最中にどこかで天使の囀りを聞いた体験があるという話を耳にしたことがあった。天使の囀りがいかなる内容なのかは分からなかったし、実際に成功者から聞いた話ではないので本当かどうかも分からない。けれども、私はどこかその話を信じていた。

 天使はどこかにいて、成功する者を今も雲の上から探していると。



 目が覚めると、私は薄暗い階段の踊り場に寝転んでいることに気がついた。頭上では半ば寿命が近づいた蛍光灯が力なく光を放っている。階段の壁も、その薄暗さを反映してなのか黒ずんで薄暗い空間を助長している。

 気分が滅入る光景だ。寝起きには最悪の光景である。

 固いところで寝ていたせいか体の節々が痛い。

 それでも、幸い体調の悪さは感じられなかった。冬の町中で寝てしまったよりかは幾分かましか。いや、この陰鬱な光景を寝起きに見るのはそうとも言い切れないな。五十歩百歩の世界だ。

 そもそも、ここはどこなのだろうか。寝てしまう前の記憶がはっきりしない。外を望めるような窓や隙間はないので、建物の中に設置された階段なのだろう。いつも使わないマンションの階段なのか、私が勤めている会社のビルにある階段か。それとも、記憶を忘れるほどに飲んでしまった居酒屋が入った雑居ビルか。

 どちらにしろ、こんなところで寝ているわけにはいかない。

 私は、階段室から出るために下ることを決意した。


 どうしたことなのだろうか。いくら下れど階段室を抜ける扉が見当たらない。

 もう何フロア過ぎたのだろうか。

 起きるのはコツコツと響く乾いた自分の足音だけ。永遠に刻まれるかのようなリズムは、催眠術の効果が含まれているのかとも思ってしまう。起きたばかりなのに、なんだか頭がうっすらと混濁しているかのようにも思えるのだ。その呪縛を解くためにも、不意に立ち止まったり急ぎ足で駆け降りてみたりなどリズムを故意に変えるのだが、そんな行為にはなんの意味もない。無駄に体力を消費するだけになっている。精神だけでも滅入っているというのに、この上体力まで削られては例え外に出られても家まで帰ることができるだろうか。

 不安だけが増している。

 それに、心なしか下れば下るほど蛍光灯の明かりも貧弱になっているように感じられる。視界が狭まっているようで、余計にどこを歩いているのかわからなくなる気がする。そもそも、本当にここは階段なのだろうか。

 そんな根本的なことまでも疑いだしてしまった。

 確かに、目の前にあるのは無数に繰り返される段差であり、これを階段と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

 しかし、階段ならどこかへ通じてこその存在。どこにも通じない階段になんの意味があるのだろう。

 どこにも通じない? この奥、この階段は無限に下れるということなのだろうか。

 もうひたすらに下って頭が回らなくなってきているのだろう。思考がおかしくなってきた。思い付く考えがおかしな方向へ向かってしまう。不安が増しているようだ。

 コツコツコツコツ……。

 私の頭の中でも自分の足音が刻むリズムが鳴り響き出す。

 視界も狭まり、なんだか目眩を起こしている気もしないでもない。実際は、単に蛍光灯の光が更に弱まっていてもはや暗闇に近い状態になっているからだが。

 ただ、私はもはや頭の中が靴音と不安で撹乱され、なおかつ視界までも絶たれようとしていただけに、正常な感覚は失っているのかもしれない。早く外に出なければ、このまま闇を徘徊するだけの人間になり果ててしまう。

「……はっ!」

 思わず無意識に息が漏れ、足を急停止した。無意識に恐る恐る降りていたので勢いでつんのめることだけは防げたが。

 暗闇で物陰が動いた気がしたからだ。距離は踊り場から次の踊り場まである。この暗がりだ。錯覚かもしれない。けれど、なんだか暗闇の中で何かが揺らめいた気がしたのだ。

 私は、恐る恐る目を凝らして暗闇の中を凝視した。

 何も見えない、

 耳を済ます。

 何も聞こえない。

「……誰か……いますか?」

 闇に向かって誰何した。

 もう階段を下り出して何時間か経つ。

 いよいよ気が狂ったのか。

「誰か……」

 もう一度か細い声で誰何した途中

「……しても仕方ないよ」

 階段下、闇の中から囁くような声がした。それは、男性とも女性とも判断しづらい変な調子で高い声質だ。

 私の体は、瞬間冷凍されたかのように固まり、その場で身動きができなくなった。

 逃げたいという気持ちもわかない。脳内の処理が追い付かずに、次のアクションが何一つ選択肢に出てこない。

 ただ、目だけを闇の中へ固定し、耳だけはしっかりとその機能を働かせている。あんなに曖昧になりがちだった五感だが、今この瞬間、耳だけは鋭利なナイフのように鋭く煌めいている。

 心臓の鼓動がまるで外に飛び出してしまったかのように激しく唸って体内に轟かせているのが分かる。階段下にも響いているのではと思えるくらいに。体内ではお祭り騒ぎでもしているかのごとく騒がしい。しかし、実際は静寂なのだ。囁き声は一瞬で消えてしまった。硬直で一分以上固まっていたのだが、その間に声はすることはなかった。

 動悸が尋常なく激しくなっている。体が悲鳴をあげ出している。 研ぎ澄まされた耳だけを便りに私に迫った危機レベルがいかほどかを計る。囁き声は消えた。鳴り響いていた足音の幻聴までも、今は鳴り止んでいる。

 私は、恐怖を乗り越えた体からの緊急シグナルに応えるべく、気力を振り絞って踵を返した。

 気力で持っていくしかないほどに、私の精神は疲弊している。

 動かせた足も、感覚がなく前へ踏み出せているのかどうかも自分で把握できないほどだ。暗い視界の中、自分が上へ戻っているのかも分からない。もしかしたら、何か勘違いして声がした方へ自ら突き進んでいるのかも。

 もう、何がなんだか分からない。間違っているのではと立ち止まることすら考えてはいけないと思えた。

 私は、ただ夢中に自分の体を信じることしかできないでいた。

 そうして、また幾らかの時間が過ぎていった。

 階段を無我夢中で戻る最中に、頭の中へ直接囁くような声がしたのも気のせいだ。
気のせいに決まっている。


 ……しても仕方ないよ



つづく

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