いつまでたっても天使は囀らない 2

湿度が急に高まりだしてきた。じっとりする空気が体を包んでいる。あまりに急な高まりのため、なんだか知らずに池の中に落下した気分である。

どうやら、階段室に雨が降り出したようだ。
その証拠に、頭上から水滴が何度も私の頭に落ちてすっかりと髪の毛をぐしゃりと濡らしている。足元を見れば大きな水たまりができていたし、天井まで続く階段の隙間に手を差し出せば雨粒が私の手をしっかりと打つ。これは立派な雨だ。

でも、傘なんてない。レインコートもない。雫を遮るものなんて何も持ってはいない。一方的に雨粒を受け止めるしかない。
室内で傘をさすのも滑稽な話なのだが、今は十分にそんな状況である。
しかし、傘はない。

仕方のないことだ。まさか、建物の中、階段室に雨が降るとは思ってもみなかった。天井に穴でも開いているのだろうか。いや、そもそも天井があるのだろうか。ここは外までつながっている縦長の吹き抜けではないか。
私は、雨粒に耐えながら天井のほうへと目をやった。だが、わからない。あまりの高さに、天井の様子が全くうかがえない。階段室は薄暗く、天井を見やっても光が差し込んでいる様子は確かめられない。ただ、黒い靄の中から水滴が幾度も私の顔を打ち付けるだけだ。
見上げれば、一方的に雨粒が私を責め立てるように打ちつけてくる。

私は、仕方なしにさっと頭を引っ込めて雨が当たらない場所を探した。
もう幾時間か分からないほどに階段を上り下りし続けていただけに疲労は大きい。そんな体に雨は堪える。体だけではない。気力までもが溶かされている。残り少ない体力と気力を容赦なく削っていくだろう。まだどれほどの時間を階段移動に使うか分からないだけに、ここで体力の消耗はできるだけ避けたい。

けれども、雨は容赦してくれないらしい。その雨量のせいか、水滴は階段の裏面を伝っていたるところを濡らし続けている。私が水滴から脱がれられる場所はないようだ。

すっかりと気乗りがしなくなって私はその場で雨に打たれるままに立ち往生してしまった。その間は、もちろん雨は私を打ち続け衣服が水分を吸い取り重くなっていく。まるで、ここにとどまれと言わんばかりに重くなっていく。
私の気力はすっかりと萎え、その場でしゃがみ込んでしまう。
雨を避けるのも、衣服に吸い込まれた水分を絞るのも億劫に感じられる。無気力な視線だけが、虚空をさまよっている。


不意に、目の前の階段で何か違和感が生じた。
なんだろうか。
私は微かに首をかしげながら、うつろな視線を違和感へ向けた。
階段の一部分に僅かにだが薄く水色がかった靄のような渦巻きが見られた。錯覚かと思い少し目をつぶってからもう一度そこを凝視してみたのだが、やはりそこには水色の靄が見えた。雨粒を吸い込み過ぎて、意識までもがその水分で薄れているのか。そのせいで、意識や視界がぼやけていくのだろうか。
私の意識は、もはや寝起きのそれに近い。夢も現実も、はっきりと判断はできない。
それが現実か、夢が見せる幻影かはわからない。ただ、今の私の視覚は、確かに靄をとらえてはいるのだ。
靄はじっくりとだが、じわじわとその範囲を広めている。やがては、その靄の奥からも、また仲間が呼ばれて来たかのように靄が出現した。ぼんやりとした時間の中で、靄は次第にその数を増やしていくのだ。
洗濯機に洗剤を入れ過ぎて泡があふれ出してきているかのように、その靄はとめどなく現れ続けている。まるで、降り注ぐ雨を吸収し肥大化していくかのようだ。実際、靄は雨を飲み込むがごとく膨れ上がり、階段一帯の空間を占拠しようとしていた。やがては、巨大なバルーンのごとく、私の前に立ちはだかっている。

私は、逃げることも忘れただ茫然と事の成り行きを眺めているしかなかった。恐れはもちろんあった。緊張感で喉が渇きもしていた。周囲にはたえまなく雨が降り、私の顔は雫がしたたりづけていたが、喉の奥では砂漠の荒野が広がっている気分だった。

巨大化した靄は、何をするわけでもなく私の目の前でゆったりと蠢いている。私を襲うわけでもなく、上階へと昇っていこうとするわけでもない。ただ、その場に留まり、その巨躯をさざ波に流される枯葉のごとく揺らめくだけなのだ。

どれほど対峙していただろうか。実際はほんの数分程度だったのだろうが、緊張感のあまりに何時間もたったような感覚がある。結果からすると、靄は何もしなかった。ただ、そこに揺蕩うだけだった。その巨躯に泰然と存在していると表現すべきだろうか。それとも、その曖昧な外見に儚さを感じ取るべきなのだろうか。なんとも得体のしれない雰囲気に、私は戸惑いを覚え始めている。

そっと気力を振り絞りながら立ち上がってみた。獲物に見定められているような感覚の中、緊張感を絶やさずにゆっくりと。立ち上がると、ゆっくりと、それでいて力強く一歩横にずれていく。目線は靄から離すことなく。

まるで、鏡だ。

鏡をのぞき込んでいるようだ。
曖昧にぼやけたその体躯、ぼんやりと蠢くだけで意図が読めないその姿勢、打ちひしがれたかのように降り注ぎ続ける雨、どれもが私を映し出したかのように見えてならない。
そして、私に「なぜ」とそっと小声で問いかけているかのように思えてならない。
私は、そんな靄の塊にそっと首を横に振るのだ。
私は、誰でどこへ行こうとしているのだろう。
私の視界はぼやけている。
 
 
 
靄はその巨躯を振動させるかのように、突如として音を響かせた。
それに呼応するかのように、しとしとと降る雨がどさりと零れ落ちる果実のごとくドンと激しく降り注ぐ。

視界が一気に煙り見えなくなる。
あの靄も、その水が作り出した煙幕に紛れてしまう。
私はあまりの出来事にたじろぎ、体を丸めて身を守る姿勢をとっていた。

やがては水の煙幕も落ち着き、視界が戻りだす。

そこには、もうあの靄はすっかりと消え失せていた。

そして、驚くように雨もサッと止んでいるのであった。

呆然とした間の抜けた表情を浮かべた。私だけがそこに取り残されているのだ。



つづく

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