noterさん、ちょっと気持ち悪いよ。
「自己紹介」を固定記事にしている僕に、強烈な一撃が入る。
おもしろい記事を見つけた。
これをnoteで言ってしまうなんて!
例えるなら、関ヶ原の戦いで敗戦濃厚になった西軍の島津義弘が敵中突破の退陣をしたような感じだろうか。
しかし、よくよく中身を読んでみると「note」という運営やサービスに対する批判ではなく、noteで投稿をしている「noter」に対しての批判である。
つまりは僕に対する批判であるということ。
「売られた喧嘩は買わなければ、九州男児の名折れである!」
と、島津さんならそう言うのだろうが、僕は東側の人である。
そして何より、「わかるわ~」という共感が勝るのだ。
ならばここは、対立するより協調した方が得策である。
なぜって人の記事を引用した方がビュー数を稼げるんだもん!
この思考が「気持ち悪さの原因だ」と、筆者は語っている。
「PV(ビュー数)」や「スキ」は、もしnoteが消えてしまった時、一緒に消えてしまうものである。
そういう「自分以外の何か」に依存しなければ存在できないような数字を追いかけるnoter共。
それはなんだか「少子高齢化」を表す画像のような、「若者が倒れたら全部が倒れる”怖さ”」がある感じ。
「そんな”怖いもの”になぜ寄っかかり、それが絶対であるかのように神聖視できるの?」
だから筆者は「気持ち悪い」と思ったのだろうし、僕もそういうところに共感した。
そして筆者はそれの解消策として「”自分”を見てもらうこと」を提唱している。
例え「note」という媒体が倒れようとも、「自分」があれば他でどうとでもなれるよう、「自分」を好きになってもらう。
そのために1記事1記事、熱と軸を持って表現していく。
しかしまぁ何と言うか、それができているかを確認するには「ビュー数」や「スキ数」のような”数字”を見る必要がある。
目の前にある”数字”はあくまで判断材料であり、「上手く行っているか否か」を見定める道しるべ。
その道しるべが”目的”になった時、言動が過激になったり、釣るようなタイトルを付けたりして、noterは気持ち悪くなる。
目的はあくまで「自分を好きになってもらうこと」。
noteが倒れた時、共倒れにならず、他の場所で再建できる”自分”を作ること。
それをするために”数字”を道具として使う。
飼い慣らすことが肝要であり、飼われないよう用心するべし。
恐ろしいほど共感してしまうnoteだったし、逆に共感し過ぎて「同意です」とリプをし合う某界隈のようになっていないかと不安になる。
しかも引用させてもらった方は東大生らしい。
「東大」って、あの「東大」だよね。
一言でも誤字脱字があれば「これだからバカは・・・」と呆れる、あのハイスペが通う大学。
このnoteは書かない方がよかっただろうか。
今からでも消してしまおうか。
しゃらくせぇ!
東大生がなんぼのもんじゃ。
こっちの方がフォロワー数多いんじゃい!!
これだからnoterは、気持ち悪い。
以上!くろだでした。
読んでくれてありがとうございました。
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ではまた👋
【引用記事】
【あとがきを一つ】
特段「東大」に恨みはありません。「頭いいんだなぁ」という偏見があるだけ。