「noteのストック」「毎日投稿」”それ”で何を成したいのか
昨日のnoteにて「11月なのに暖かいな」という旨を投稿した。
しかし昨日は割と寒い日だった。
そしてこれを読んでいる人も思っていることがあるはず。
「あれ?昨日のnoteはニュースを起点にしたやつだよね?」
でも僕が「昨日投稿したnote」で指している記事はこれである。
11月11日、「ポッキーの日」と言われる日に上のnoteを投稿し、次の日の今日これを書いている。
でもこれが公開される日は15日だろ?
もう何度も言っていることだが、僕はnoteをストックしている。
日曜日の今日に水曜日のnoteを書いているということは、三日分のnoteがあるということ。
つまり三日前に三日後のnoteを書いているので情報が古いのは仕方無いのである。
とはいえよ、気温とかニュースみたいな”時事的なもの”をストックすると読者さんに「ん?」という一瞬の混乱が生じると思う。
そして一昨日に書いた通り僕の実力不足もある。
とにかく不安なのだ。
「分かりづらくないか」
「誤解するんじゃないか」
「伝わらないんじゃないか」
そんな不安が今日書いたものを今日投稿する「リアルタイム投稿」を助長する。
しかしnoteをストックしなくなった途端、急に続けるのが辛くなって休んだことがある。
ストックありで3ヶ月続いたものがストックを無くした途端1ヶ月で止まった経験。
それがあるから「ストックありで活動しよう」と決めて再出発をした。
毎日投稿の安定性と執筆の精神衛生を考えるとこれが最善である。
このまま行く。
結局、今日のnoteは何が言いたいのか。
たった1日、執筆時と投稿時の状況が噛み合わず、ちぐはぐになっただけでも決意が揺らぐことがあるという話。
ここで感情に流されて「リアルタイムで投稿するぞ」となれば、とりあえず三日執筆を休み、投稿当日に投稿用noteを書く。
そりゃあ最初は意欲があるから続くよ。
だけど「今日なにも浮かばないや」って日が一日でもあれば意欲は削がれ、「続けなきゃ」という強迫観念に駆られる。
そうなれば執筆活動は「楽しい」から「辛いもの」に変わる。
原点に立ち返ろう。
僕は「楽しいの中で生きていく」ことをテーマに掲げている。
最終的には周りの人もそうなって欲しいけど、そのためにはまず自分がそうあることが必要である。
そしてそうなりたいと思っている。
ならばそう思える環境作りをするべきである。
だからnoteをストックしているのだ。
「まぁ三日分あるし、そんなに急がなくてもいいか」
そんな日はnote以外で楽しいことをすればいい。
僕にとってnoteをストックすることは正義である。
もちろんストック無しで投稿するnoterがいてもいい。
僕は僕、あなたはあなた。
各々のやり方で「楽しいの中」を生きられればそれでいい。
何か迷いがある時は「それをして何を成しえたいのか」。
行動や感情の原点を探ってみるといいよという話。