【#3行日記】サボってんじゃねぇよ
『葬送のフリーレン』を読みたい。
こんなnoteを書く時間があるなら一刻も早く読み進めたい。
「そうだ、3行日記で行こう」
そんなひらめきを黙殺する。
「3行日記」はnoteのお題である。
「気軽に始めること」を目的に3行だけ文章を書く。
とは言っても「3行になるかどうかは読者のデバイスによるよな」って話を以前の3行日記で書かせてもらった。
この文章はPCで書いている。
PCは横に長い画面だから、1行の文字数が多くなる。
ただ、多くの読者はこれをスマホで読んでいるはず。
そして縦画面にして読んでいるだろ?
noteは横文字。
それを縦画面で見せれば行数は多くなるが、1行の文字数は少なくなる。
上の文章、PCでは1行に収まっている。
しかし横画面のPCですらギリギリの文字数。
縦画面のスマホでは2行になっているはずだ。
何が言いたいか。
「3行」では基準があいまいである。
だから「3文日記」という意味で僕は解釈することにしたよ。
ってだけ。
「おかしいだろ。名称変更しろ」とnoteさんに言えば直されるのだろうか。
それともマジで「3行」で収めるお題なのだろうか。
違う。
「気軽に投稿してね」
これがnoteさんの意図である。
noteを書けば何でもいいのよ。
そう。
「書けばいいのだ」
別に#3行日記だろうと書けばいい。
なぜやめた?
表現することって苦しいことだと思っている。
だけどこの「苦しい」の中に「成長」があり、その中に「楽しい」があると思っている。
日によっては「3行」すら書けない時もあるのだ。
「ほんとに何もない」と言って、つぶやきで毎日投稿を続けたことは何度もある。
あれは苦しい中でもつぶやきをし成長する過程の一つである。
今日は別に辛くない。
もちろんこんなことを書いている今日である。
書くネタは無い。
だけど書き進めればもうすぐ1000文字というところまで書ける調子である。
それがあるのに「3行日記」で収めるのはどうなのかね。
そう思った。
「3行日記」が悪いわけじゃない。
「3行」という決まりがあることで、その中で最大限の表現をしようと思案すること。
これは短歌や俳句などの「定型詩」を作る時に使う”創作思考”に負荷をかけられる。
だけど今日の僕は「3行書けばいいや」という甘ったれた思考であった。
最初の3行見てみ?
なんもないでしょ。
これはほんとに表現者が書く文章か?
違うと思った。
だからここまで自分で自分を説教しているような文章を書いてきた。
そしていつものnoteと同じような文量になってきた。
書けば書けるのに手を抜こうとするから怒られるんよ。
ただ、偉いよね。
ちゃんと書いた。
そして自分で自分を制してる。
なんだろうね今日のnoteは。
変なの。
じゃあ、マンガ読んでくる。