大名屋敷境から幻の外苑内の道へ
23区全区境踏破第19回
港区編3回目は、広尾駅から一気に四ツ谷駅まで行って港区境を歩き切ります。大部分の境が大名屋敷境に由来し、東京がいかに江戸の歴史を背負っているかがわかります。
広尾駅上の外苑西通りを北に進むとまもなく左斜めに入る道があります。左側に聖心女子大入り口があるこの道の右側は港区で、左側が渋谷区です。道は笄(こうがい)川という川でした。前回終盤で区境がフラフラと揺れている原因と書いたのはこの川で、前回近くを通った天現寺橋で渋谷川(古川)に合流しています。
江戸時代は川の渋谷区側には広大な佐倉藩堀田家下屋敷がありました。幕末の老中・堀田正睦(まさよし)の家ですね。維新後は昭和天皇皇后出身家の久邇宮家邸となり、現在は聖心女子大、日赤医療センター、高級マンション広尾ガーデンフォレストなどになっています。
川跡の道を少し行くと左上に折り返す坂があり、その名も堀田坂です。ここが堀田家屋敷の北東端でした。坂を登りきった真っ直ぐな道の左側が堀田家跡で渋谷区、右側は牛久藩山口家下屋敷跡で港区です。山口家の上屋敷は虎ノ門のアメリカ大使館になっています。
途中、ガーデンフォレスト敷地内に今にも枯れそうなイチョウの古木が見えます。堀田家屋敷以前の、樹齢500年の木というから驚きます。突き当たりを左に行って、東京女学館高校の角を右です。女学館側は江戸時代は原宿村などで、向かいは山口家の別敷地でした。住宅地を進むんで行くと、右側が丹南藩(大阪府松原市あたり)高木家の下屋敷跡と変わります。
変わった形のオブジェがある五差路から六本木通り方面に入ると左側は常陸宮邸で、ここまでほぼ道が区境です。宮邸敷地はかつての鹿児島藩島津家下屋敷で、幕末に篤姫が滞在した場所です。青山通りに出る直前で右側が高木家から旗本青木家屋敷に変わり、旧青木家敷地は渋谷区となります。ですから区境は右の高級マンション内に消えていきます。
まっすぐ進んで六本木通りを渡って、通りを六本木側に行き左三つ目の坂を登ります。通り脇の渋谷四丁目まちかど庭園が目印です。旧青木家敷地だった庭園側は渋谷区で、登り切って左へ進むと、この先右側はかつての幕府御家人用地。左は青木家が続きます。さらに進んだ左側の青山学院大学は江戸時代、紀州徳川家の分家の伊予西条藩松平家上屋敷でした。青山通りを渡って酒屋と花屋のビルの間の道が区境です。
左の酒屋側は淀藩稲葉家下屋敷、右の花屋側は一関藩田村家の下屋敷です。田村家の愛宕上屋敷で浅野内匠頭は切腹しました。少し進んで、「ロハス通り」と名付けられた道へ右に入ります。ちょっと行くと右の通りの中に、NHKの夜のお天気映像で輝いて見える「青山セントグレース大聖堂」があります。
表参道の神宮前五丁目交差点を渡り「原二本通り」に入りますが、この辺り左手は広島藩浅野家下屋敷でした。江戸時代は表参道から少し入ったところで敷地がクランクしていて、現在の区境も実は本通りから少し右に入ったところを通っています。
その境が明らかになってくるのが、この先の旧都営北青山三丁目アパート再開発地です。今は広々とした公園と高層マンションに変わっていますが、この右側の敷地は同じ浅野家でも分家の広島新田藩上屋敷でした。区境はキラー通りに出るところで屈曲しますが、これは江戸時代ここにあった町人地が渋谷区側に編入されたためです。
キラー通りを左に行きますが、区境はすぐに右側、出雲母里藩松平家屋敷のあった街区の中を通っています。最初の角で右に入り、突き当たりを右です。突き当たりを左へ行くと高徳寺がありますが、この高徳寺の境内はぐるっと港区にされました。
その向こう、境を接する山形藩水野家下屋敷は渋谷区となります。水野家跡地は明治以降は長く近衛連隊駐屯地で、今は國學院高校と青山高校などです。
境内の中には道がないので、先ほどの突き当たりを右に行ったら、すぐ左の路地に入って道なりに抜けていきます。途中の青山高校テニス場裏の電柱陰に陸軍境界石がありますが、とてもわかりにくいです。
道はスタジアム通りに抜け、この先区境は神宮球場に入ります。神宮外苑には、江戸時代は甲賀組など御家人や旗本の小さな屋敷がひしめいていましたが、維新後に全て立ち退かされ青山練兵場となります。それが明治天皇死後に明治神宮外苑と変わりますが、江戸時代の道筋が千駄ヶ谷村と赤坂区の境として残りました。
このため今も区境は球場内を横切り、噴水や軟式野球場をかすめ、ジグザグな線で外苑東通り脇の千日坂に続いています。まったく区境どおりには歩けないので、神宮球場の脇を通り、噴水前をぐるっと回って外苑東通りに出ます。
左に曲がって明治記念館の前を通り、千日谷地区に寄り道しましょう。右下へ急坂を降りると周辺はほぼ新宿区ですが、一部港区部分があり、坂下の新宿区みなみ児童遊園は、以前にも書きましたが実は港区にあります。公園の銘板の上にご丁寧に港区の住居表示が貼ってあります。不思議な場所です。
公園あたりは江戸時代の道筋が区境になったようですが、この先は道ではなく崖下が新宿区、崖上が港区になっています。しかし例外があり、江戸時代に尾張家の土地だった場所だけ、新宿区が南に飛び出しています。このため崖上の明治記念館の一部は新宿区です。
崖下に道はなく通れないので、明治記念館の手前に戻り、安鎮坂を下ります。向こう側から降ってくる鮫が橋坂と出会い、坂ぞいに境が続いていきます。右側の赤坂御所敷地が港区、外は新宿区と整理されています。四谷へ登った迎賓館前の公園は新宿区の若葉東公園で、迎賓館内は港区です。赤坂御所敷地は江戸時代には主に紀州徳川家上屋敷ですが、迎賓館の前庭部分は旗本屋敷などがごちゃごちゃとありました。
迎賓館前まで来ると、上智大学グラウンドとなっている旧江戸城外濠真田堀は目前です。この真ん中に新宿区と千代田区の境があり、港区と新宿区の境は、赤坂見附に降る紀之国坂沿い、迎賓館の敷地に沿って伸び、喰違見附手前で堀側に曲がって三区境となります。そこには行けないので、喰違見附の土橋を渡り、左に曲がって外堀土手上を四ツ谷駅まで行きましょう。
これで港区編はおしまいです。次回からは新宿区境を歩きます!