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「順天堂発祥之地」

明治医学語る上で欠かせない存在

★ジャンル【学校】
★場所 中央区東日本橋2-6-8
★最寄駅 JR総武線馬喰町駅、都営地下鉄浅草線東日本橋駅、新宿線馬喰横山駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「天保九年(西暦一八三八年) 順天堂始祖佐藤泰然 この地に和蘭医学塾を開く」

★解説
 碑は歳の市で有名な薬研堀不動院の境内にあります。
 佐藤泰然(さとう たいぜん)は江戸後期の公事師(くじし)、佐藤藤佐(さとう とうすけ)の子として1804年(文化元年に武蔵国稲毛=今の川崎市内)で生まれました。
 公事師とは江戸時代の訴訟代理人で今の弁護士に近く、ペテン師のような者もおりその質はさまざまでした。しかし佐藤藤佐は有名な「三方領地替え」の天保義民事件で、庄内藩や農民の側に立ってその非を訴え、ついに撤回させた人物です。この辺りの経緯は藤沢周平(ふじさわ しゅうへい)の小説「義民が駆ける」に詳しく描かれており、佐藤藤佐も登場します。
 息子の泰然は医師を志し、高野長英(たかの ちょうえい)らに師事して1835年(天保6年)に長崎に留学します。1838年(天保9年)に江戸へ戻ると、両国薬研堀に「和田塾」という医学塾を開きます。これを順天堂大学は発祥としています。和田というのは母の姓で、このころは和田姓を名乗っていました。「三方領地替え」事件はこの少し後、1840年のことです。
 泰然はその後、佐倉藩主堀田正睦(ほった まさよし)の招きで1843年(天保14年)に江戸から佐倉に移り、病院兼蘭医学塾の佐倉順天堂を開きます。この時初めて「順天堂」の名前を用いました。佐倉行きは、この頃江戸で蘭学者を弾圧する蛮社の獄が起きており、この難を避ける意味もあったと言われています。
 現在の薬研堀不動院の場所を幕末の切り絵図などを見ると「林洞海」(はやし どうかい)の名があり、これは泰然が佐倉に移ってのち、和田塾の運

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