栄一が始めた東京の電気とガス---23区渋沢栄一ゆかりの地
第34回「栄一と伝説の商人
ついに岩崎弥太郎と対面です。さすが中村芝翫さん、怪演ぶりにドキドキしました。渋沢栄一役の吉沢亮さんも負けてはいなかったと思います。
この対面は有名な話で、ドラマでは岩崎に呼ばれた渋沢がいそいそと銀行から出かけるふうに描かれていましたが、実際は別の料亭で宴席を張っていた渋沢のもとに岩崎の使者が訪れ、礼を欠いてもなんだと渋々出かけた、とされる場合が多いです。
対面時期ですが1878年(明治11年)8月とする記述が多いですが、異説もあります。場所は「向島の柏屋」という料亭だったっとされます。江戸時代から向島は風光明媚な土地として、江戸の庶民らの行楽地でした。多くの料理屋ができて賑わったそうです。しかし芸者置屋などができるのは明治に入ってかなり後のことで、この対面の頃は他から芸者を連れていくのが普通でした。渋沢も別の場所から芸者を連れて行ったとされています。
ですからドラマでは平岡円四郎の妻・やすがこの料亭でたまたま芸者に三味線を教えていたことになっていましたが、そういうことはおそらくなかったと思われます。
で、この柏屋の場所、知りたいですよねえ。
すいません。わかりませんでした。今はもちろんこういう名の料亭はありません。「船遊びを楽しんだ後に、料亭に戻った後に激論が始まった」とされるので、隅田川べりのどこかだったのでしょう。ご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。
ドラマではわかりやすく「金儲け主義」VS「みんなで豊かに」との対比で描かれていましたが、経済学的に言うと、経営と資本の関係に対する意見の相違、ですね。経営者と資本家は一体、同一人物がいい、というのが岩崎。経営と資本は分離するのがいい、というのが渋沢。ですから方法論の違いであり、後に渋沢は孫の敬三に「喧嘩別れしたわけではない」と話しています。現に東京海上保険会社の設立については岩崎と渋沢は協力して当たっています。
しかしこののち、海運会社をめぐる競争では、両者窒息寸前となるような激しい戦いを繰り広げることになります。
向島の旧料亭街
墨田区向島2丁目、5丁目あたり
最寄り駅:東武スカイツリーラインとうきょうスカイツリー駅
地 図
さて今回の序盤、渋沢が子供たちと遊び、千代が書生たちを叱ったのは、これは間違いなく前回紹介した深川の家ですね。千代がすっかり立派な奥方になっていました。
そして条約改正に絡み、明治政府は英国公使パークスに「パブリックとは誰だ?」と馬鹿にされ、相手にしてもらえませんでした。実際、諸外国からは「日本には商工業の世論を結集する代表機関がなく、日本政府の世論を論拠とした主張は虚構である」と批判されています。
そこでドラマでも描かれたように伊藤博文、大隈重信が渋沢に依頼して(ドラマでは大隈が岩倉具視になっていましたが)「世論」作りのために経済団体の設立を頼み込むわけです。お手盛り感満載ですが、条約改正のため仕方ないです。
ドラマではいきなり東京商法会議所を作ったように描かれていますが、実はその下地となる団体のトップを栄一はすでに務めていました。
大都市江戸を運営するには大変なお金がかかり、また飢饉や災害への備えも必要でした。このため江戸時代には町会所という組織が作られ、幕府瓦解時にはなんと170万両もの資金を蓄えていました。維新後、1872年にこの組織は東京営繕会議所、さらに東京会議所となり、このトップを渋沢が務めていたのですが、1876年に業務を東京府に移管して解散することになります。
そこに経済団体作りの話が出てきたため、改めて1878年に商法会議所が設置されたのです。その場所はここ。
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