見出し画像

橋の袂に各区の公園

23区全区境踏破第10回

「23区全区境踏破」の記事一覧

←前へ                       次へ→

神田川に架かる左衛門橋まで来ました。
この橋から下流は北が台東区、南が中央区で、橋の真ん中に三区の境があります。
つまり左衛門橋の西北と西南のたもとは千代田区、東北は台東区、東南は中央区、ということになります。
橋に近づいてみると、橋の四つのたもとはすべて小公園となっており、それぞれ名前がついています。
西北は「千代田区立左衛門橋北児童遊園」(79平方メートル)、西南は「千代田区立左衛門橋南児童遊園」(108平方メートル)です。
しかしこの千代田区の公園にはベンチぐらいしかありません。
北児童遊園には「東神田三丁目」の地名由来版があります。
南児童遊園には町会の防災倉庫があります。
東北たもとは台東区の「左衛門町児童遊園」(114平方メートル)で、こちらには複合遊具があります。
また、この東北部分にあった「浅草上平右衛門町、左衛門町」の「旧町名由来案内」があります。
最後の東南たもとは中央区の「左衛門橋南東児童遊園」(面積不明)です。ここにはトイレとベンチがありますが、遊具は小さなものが一つだけ。
とまあ仲良く縄張りを守ってそれぞれに公園を整備していますが、なんとなく役割分担をしている気もします。
というのは千代田区の公園にトイレはありませんが、一つ上流の美倉橋には千代田区はトイレを作っており、台東区は一つ下流の浅草橋にトイレを作っているからです。
同じ橋にトイレは二ついらないですからね。
ちゃんと調整しているようです。

さて神田川を渡ると、ここからは千代田区と中央区の区境が続きます。
神田川は江戸城外堀ですから、江戸時代は南側には土手があり、柳が植えられていました。
土手のさらに南側には、いざという時のために広い空き地が連なっていました。いざ、というのは当初は城攻めですが、平和になってからは火事です。
そして土手を「柳原土手」と言い、空き地を「柳原通り」と言いました。
通り名は今も同じです。
また江戸時代には、現在の左衛門橋あたりから浅草橋にかけては、広大な郡代屋敷がありました。
郡代というのは関東の幕府領を管理する関東郡代のことで、江戸の中期にはここで土地争いの訴訟などを受け付けました。
江戸末期に火事で焼失後は「御用屋敷」と変わったのですが、江戸っ子は相変わらず「郡代屋敷」と呼びました。
明治後はこの郡代屋敷跡は日本橋区域とされ、西側の旧町人地は神田区となります。
その境は、左衛門橋を渡って右手、二つ目の路地を入ったあたりから、左衛門橋から靖国通りをまっすぐ渡って突き当たった街区の裏あたりまで斜めに境界が続いていました。
しかし関東大震災で一帯は丸焼けとなり、靖国通りが整備されるなどの街区整理の中で、1933年区境の変更が行われました。
現在の区境は、左衛門橋を渡った後にさきほどの路地に入り、靖国通りまでまっすぐ行きます。
渡ったら左に進み、三つ目のやや広い道路を入って三叉路を右です。
境界を引き直しても、千代田区分と中央区分の面積配分はまあまあ帳尻が合っているように思います。
靖国通りが東西に通り、北側に東西南北に揃った四角い街区ができ、そこを斜めに境界が通るのを避けたのですね。

千代田区立龍閑児童公園

三叉路の先は東日本橋の問屋街です。
二つ左手の通りには馬喰町駅があります。
少し進むと、道の両側に車両の入れない細い路地のあるところに出ます。
ここで区境は右側の路地に入るのですが、この路地は両側とも細いのにまっすぐ進んでいます。
実はこれは浜町川という川の跡です。
区境が曲がるところには竹森橋という橋が架かっていました。
ここには案内などはないですが、路地を左に行って抜けた場所には。「鞍掛橋」の案内があります。
さて反対側、ビルの谷間を右に入ると、すぐに左に公園があります。
右側はいかにも堀割に面した裏側のような建物です。
公園に入ると「千代田区立龍閑児童公園」とあります。
江戸建築風の綺麗なトイレもあります。
一巡りして反対側から公園を出ると、ここにも公園名があり、「中央区立龍閑児童遊園」と。
「・・・・」
初めてみた時には二度見、三度見して、最初の公園表示を確認しに戻りました。
実はこの公園のど真ん中を区境が通っており、二つの区が共同で管理しているのです。
千代田区は「児童公園」、中央区は「児童遊園」と微妙に名前が違いますが。
さらに中央区側の角には「竹森神社」という神社があります。
先ほどの橋名の元ですね。
この神社は「江戸の七森」と呼ばれた「森」の字がつく有名神社で、古くからここにあります。
この公園内に区境があるのは、先ほどの浜町川がここで南西に直角に曲がって公園内を突っ切っていたからです。
神社は江戸時代からその曲がった角にありました。
川はここから龍閑川と名前を変えます。
この川はもともと、1657年の明暦の大火の後の江戸の町の防火帯として開削され、のちに舟運にも使われるようになりました。
神田八丁堀などとも呼ばれ、神田と日本橋の境界線とされました。
そして今も、ここから日本橋川までの龍閑川跡が千代田区と中央区の境です。
明治なるとこの竹森神社あたりから北西にも水路が切り開かれ、神田川と繋がって水運に利用されますが、その後の水運衰退と戦災の瓦礫処理もあり、1950年には消失しました。
この先は日本橋川までほぼ一直線の区境ですが、途中さまざまな史跡がありますので、それらをご紹介しながらの行程となります。

←前へ                       次へ→

いいなと思ったら応援しよう!

歩いて、探して、歴史を発掘する黒田涼
記事がよいと思っていただけましたら、お気持ち、よろしくお願いします。