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5.調布オアダイ

およそ三年ぶりに僕は京王線の調布駅に降り立った。
「変わらねぇな、この街も」
なんて、かっこつけて呟きたかったが、上京してすぐの頃に一回来ただけの駅前の景色は変わってんのか変わってないのかわからない。それにそんな馬鹿なことをやっている暇はない。今日は忙しいのだ。
曖昧な記憶を頼りに僕は市役所へと向かって歩き出した。



京王線つつじヶ丘駅からニ十分ほど歩いたところにあるボロい2LDKの部屋に幼馴染の友人と二人で約三年ほど住んでいたのだが、その友人が
「都会の生活に疲れたから一回地元に帰りたい」
と言い出した。(結果としてはまた数年後に彼は東京に戻ってくるが)
この約三年間どんなときもずっと一緒に過ごしてきたけれど、友人の人生は友人のものである。僕にそれを反対する筋合いも理由もなかった。しかし、そうなってくると今住んでいる部屋を引き払ってしまわないといけない。最初の頃に比べていくらか生活も安定してきたとは言え、今まで二人で折半していた家賃を一人で払っていくのは些か厳しい。
ダメ元で「地元に帰った後も家賃だけ半分払ってくれ」と打診したが、当然ながら一秒後には却下された。あったりめーである。
もうこうなってしまった以上は仕方が無い。僕は引っ越しを決意した。

そうと決まれば話は早い。
僕はバイト先があった府中駅の近くにアパートを借り、引っ越しの予定も大まかに立て、年中暇そうにしているバイト先の仲の良い先輩に当日の荷ほどきを手伝ってもらうよう話をつけた。あとは最後の大仕事として市役所での各種手続きを済ませる必要がある。こいつが一番めんどくさいが、これさえ終わってしまえばあとは引っ越し当日を待つだけである。


市役所に到着し、渡された番号札を持って椅子に腰を掛けていたが、呼ばれる番号と自分が手元に持っている番号札に書かれた数字との差に愕然とする。例のウイルスが大流行するずっと前の話だからソーシャルディスタンスも何もない。そこそこの人口密度の中で何十分も椅子に座って待つことになりそうだ。
「これは長丁場になるぞ……」
覚悟を決めた僕は、こういうこともあろうかと小説を一冊持参してきていた。アガサ・クリスティの推理小説である。勿論内容は面白いし、なんだか洋書を読んでるってだけでモテるんじゃないか、なんて邪な考えもあった。当時の自分が馬鹿すぎて恥ずかしい。
「これ見よがしに読み耽ってやるぜ!くらえっ!」
僕は鞄から勢い良く小説を取り出した。
すると、何か小さなものが一緒にピョンと飛び出し宙を舞った。引っ張り出した小説に引っ掛かっていたのか、くっついていたのかわからないが、目の前の通路にそれは飛んでいって落ちる。
「なんだこれ?」と目を凝らし、それが何だか理解できた瞬間、僕は言葉を失った。

コンドームだ。

血の気が引いていくのがわかる。
確実にその場に、その近辺に座っていた人たちは見ていた。絶対にみんな見ていた。視線が僕を殺す。
しかもタイミングが悪いことに、たまたまそこを通りかかったご婦人が拾ってくれようとして前屈みになり、“それ”を認識して

「まあ」

と目を丸くして呟き、その手を引っ込めた。
凍りついた空気の中で僕は考える。どうする。こんな状況は二十三年間生きてきて初めてだ。そしてこれからもないだろう。いや、それはどうでもいい。とりあえずブツを回収しなくては。
何食わぬ顔をして「こんなの、なんてことない日常の一コマですよ」みたいな様子で僕はブツを拾い上げ、鞄にポイッと投げ入れた。実にクールである。しかし、まったく動じていない風に振る舞いながらも内心ではこれまでの人生で一番動揺していた。周りの反応なんてとてもじゃないが見ることはできない。手元の番号札を見る。自分が呼ばれるまでもう少しかかりそうだ。
この地獄をどう乗りきる。
予定どおり小説を読むか?いやいや、こんなことしておいてそれをやるか?周りの人の立場になって考えろ。僕なら「なぁにがアガサ・クリスティじゃ。このゴム人間が」と心の中でつっこむに違いない。悪魔の実の能力者か。アガサも怒るわ。そして誰もいなくなれ。
では寝るか?狸寝入りで誤魔化すか?でもそれもどうだろう。中世ヨーロッパでは自らの手袋を相手に投げることが決闘の申し込み、謂わば果たし状を渡すような行為にあたると何かで読んだことがある。この場合はどうなる。求愛行動か?ムラムラして求愛行動をして、眠たくなったら所構わず寝るのか?オイオイ、なんでもありか。なんて欲望に忠実な奴なのだ。この調子でいけば窓口で小腹が空いたらおにぎり食べ出すぞコイツ。
どうするどうする。もういっそ逃げ出すか。いやいや、まぁまぁ待ったぞ。せっかくここまで待ったのにこれまでの時間を全部台無しにしていいのか。逃げ出した先に楽園はあるのか。
どうするどうする。
逃げるか。
留まるか。
読むか寝るか。
生きるか死ぬか。


──その後のことは正直言ってハッキリと覚えていない。気づけば僕は調布駅のホームで電車を待っていた。打ちひしがれた状態で。
後ろを振り返りホームから見える街並みを睨む。
ちくしょう。こんな街、二度と来ねぇよ。
心の中でそう毒づきながら。

わかってる。調布は何も悪くない。調布は何一つ悪くないけど。

あんな街、二度と行かねぇよ。




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逆佐亭 裕らく
お金は好きです。