わたしの家には女性が3人居たけど「母親役」が、いなかった。

どうしてわたしが小学生の頃に「既に壊れた」のかというと、
結局のところ、我が家には「母親役」の人がいなかった
そのせいで、ものすごくバランスが悪い状態のまま、
わたしの精神的な「健全な成長」はできないまま大人になった。

祖父母は戦争経験者の時代で、子育てに入り。
そんな両親のもと、母は生まれ育ち。
母はADHD気質の強い女性だった。

うちには曽祖母が居た。わたしが小3の時に他界したのだけど。
祖父の母だ。夫に病死されて、後妻さんに入り、祖父は一人っ子だった。
曽祖母は、とても「暗い人」で。わたしは曽祖母に「陰でつねられる」
という虐待めいたことを受けていた。なので、曽祖母のことは嫌いだった。
とにかく、暗い。不幸そうな人、だったし。
一緒に暮らしていた、といっても
自宅の隣にある小屋のような「暗い離れ」に常に1人で過ごしていた。
ご飯のときだけ、わたしたち子供が呼びにいくという。
食卓でも、色々話すことはないし。ただ、本当にそこに「居るだけ」のような。そんなおばあちゃん、だった。

「優しさ」とか「母性」のような
そういう温かい感じを、わたしは感じたことはなかった。
いつも、寂しそうで、不幸そうで、暗い。
そういう印象のまま他界した女性。

祖母は、気が強い商売人で。権威、権力。
そういうのが「似合う」人だった。
母のことも育ててはいない。早朝から深夜まで「仕事」をしていた人。
なので、台所に立つことはしても「母性」というものは
あまり感じにくい人だった。

○○しろ。○○すべき。○○じゃないといけない。

わたしは「成績がよい」ということで、
祖母の「おめがねにかなう」ようなところがあったけれど。
とにかく「条件」がすごくて、毎日「勉強しろ」「味噌汁を飲め」と
あれやこれやと、いちいちうるさかった。
自分が言うタイミングで動かないと、怒るし、強引。しつこい。

自宅なのに、全然「やすらぐこと」が、できなかった。

そして、母。
母は、「自分の母親に認められたい」人だったので
こどもに習い事を沢山させ、ある種「教育ママ」のようなところがあった。
こどもが成績がよく優秀だと「対外的な、祖母の株があがる」ので、
そうすると、母は祖母から褒められる。

母は、「優しいお母さん」ではなく
祖母の顔色を伺い、祖母のために「こどもを管理していた」人。

愛情深い人だったけれど、「優しさを与えてくれる人」でも
「受け入れてくれる人」でもなかった。
ADHD気質が強い人だったので、
口約束は「全くアテにならない人」だったし、
習い事のお迎えは、「10分待ってて」と言って、1時間待たせるとか平気だった。当時は携帯電話なんてない時代だったし、公衆電話からの電話。
連絡がつかないし、ただ「待つしかない」時間を、どれだけ過ごしただろうか。

それが「当たり前」だったので、大して謝ることもなく。
慣れてしまっていたけど、けっこう「イヤ」だった。

言うと「キレてくる」ので、諦めるようにしていた。

毎回大幅に待たせるのも、キレるのも
わたしが悪いのではなく、完全に「母が悪い」のに
親だから「受け入れるしかない」というのは
なかなかに「溜まるもの」だ。

そんなこんなで、
うちには「母親役」をしてくれる女性がいなかった

それが、
わたしにとって、
ものすごく「問題」「困りごと」だった。



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