「らんまん」で思い出す、博士時代の苦しさ
朝の8時~8時15分は、出社する準備(着替え、朝ごはんの食器の片付けなど)をしている時間なのですが、そのときNHKのテレビもつけっぱなしです。役者の演技やストーリーをとやかく言える立場にはないのでまっとうな批評はできないのですが、今期の「らんまん」は、博士時代のなんか重苦しい気分も思い出してしまったので、ちょっと記事にしています。
打算的な研究者たち
純粋に植物に興味があり、新種を世の中に発表したい!という志を持って東京大学に行く主人公。それに対して、東京大学の教授や学生たちは、必ずしも植物に興味がある、というわけではなさそう。研究対象についても、実績が上げられるもの、という観点で選んでいるみたいで、植物学を選択したのも消去法だったり打算的な理由であったり。
いや~、わかるよ。
私、東大の人たちの気分めっちゃわかる。
研究って趣味じゃないもん。仕事だもん。学生までで終わるって決めてたら別だけど、将来的に研究者っていう仕事に就きたいなら、考えるよ、自分がどこの分野に行けば業績上げられそうかって。みんなが研究し尽くしているところ行ったって太刀打ちできないよ。そんな分野に突入して討ち死にするくらいなら、まだみんなが手を付けていないうまみがありそうな分野、行くよね!
とはいえ、それだけを考えて研究分野選ぶのはむなしいものです。根源には、生き物への興味(私は生物系だったから)があるわけだから、自分が調べたいと思うものに多少は寄せていくよ。それに、理想的には、そうやって研究対象・研究手法を選んでモチベーションにしていくべき、という理想はあるんですよね。
だからこそさ、目の前に主人公みたいな人が現れると、周りの人は苦しいんだよ。完全な理想形だから。純粋な情熱と、それに突き進んでいく突破力と才能を持っている人が現れたら、どうしたって自分と比較するよ。どうして自分はそうなれなかったんだろうって思うと苦しすぎるよ。
私がもしあの東大の研究室にいたら、苦しいと思う。
私が博士だったときも、時々いたもんね、この人は研究がしたくて博士課程にいるんだろうなっていう人が。そういう人見てると、自分がとんだ俗物みたいな気がして(そのくせ業績も大したことない)、自分なんかはこの世界では生きていけないって思ったね。
世間に認められる必要はない
私は、世の中に名前を残したいとずっとずっと思ってきました。母親が幼いときに亡くなっているので、「人間死んだら終わりだな」とずっと思っていたのです。
中高生くらいのときは、小説家になりたくて仕方がなくて、大学に入ったあたりからは論文を出したくて仕方なかったです。両方、名前が残るじゃないですか。私という人間が、この世界にいたという証が。
で、最近思うのですが、「今を楽しく生きていくのが大事だな」ということ。刹那的に生きるということではないのですが、モノとして自分が生きていた証が残らなくてもいいじゃないか、と。
今妊娠中っつうのもあるんですが、夫という人がいて、私を私と認識してくれて、次世代という私の遺伝子を受け継ぐ人間が生まれて、まぁ、それで万々歳じゃないの、と。
あと、あんなに望んでいた論文を世に出すことができて、満足しつつも、だからといって世界ががらっと変わるなんてことはないんだなということに気づけたのは良かったです。
もうすこしおおらかに、人生のゴールを見据えることができていたら、博士時代の苦しさも、もう少し緩和されていたような気もしますね。
もう30代も半ばですが、年をとるごとに生きているのが楽になってきています。