見出し画像

頭のいい人ほどフェミニストを嫌う理由

今回はなぜ頭のいい人ほどフェミニストを嫌うのかを考えます。

結論から言うと(中途半端に頭のいい人)は「よく考えているけど完全には考えきれてない」からです。具体的には次の3つが原因です。

  1. 論理的だが合理的でない

  2. 構造規模で考えていない

  3. 人類規模で考えていない

1. 論理的だが合理的でない

頭がいい人は論理的です。なので言いかえれば論理的な人ほどフェミニストを嫌うということになります。

実際、アンチフェミニストな発言の中には論理的のものも多くみられます。例えばこんなYouTubeのコメントを目にしました。

フェミニズムが男女平等を掲げるならそもそもフェミニズムという言葉自体がおかしい。

男女平等なら名前がフェミニスト(feminine: 女性)なのはおかしくないか?という主張です。確かに、違和感を覚えるのも無理がありません。その点で、この主張は論理的といえます。

しかし、論理的=合理的ではありません。論理的とは「筋が通ってること」で合理的とは「目的に向かって能率であること」を意味します。

上のアンチフェミニストな発言はまさに論理的(筋が通ってる)です。しかし合理的(目的に向かって能率的)ではありません。フェミニズムは「現状、女性が多方面で不平等に扱われている。なのでそれを是正しよう。」という活動です。よって、「この不平等な状況を是正できるまでは、女性の権利向上をハッキリと示唆するフェミニズムという名前を使おう」というのは筋が通ってるし能率的です。

簡単に言うと、頭のいい人は論理的な批判を投げかけます。しかし建設的な解決策を提案しなければ合理的ではありません。

超頭がいい人は論理的かつ合理的です。「女性の社会的地位向上」という目的を念頭に置いて、現状策を批判し改善策を提示します。

頭のいい人と超頭のいい人の違いは論理の質にも現れます。同じ「論理的」でも差があるのです。

例えば、男女賃金差の統計を見て、頭のいい人は「原因が性別とは限らないので、男女賃金差は信ぴょう性がない。」と結論づけます。一方、超頭がいい人は「原因が性別とは限らないが、性別かもしれないので、分からない。」と結論づけます。

一見、断定的な前者の方がより論理的に聞こえます。しかし、断定的=論理的ではありません。頭のいい人は因果関係に疑問を持った点で論理的ですが結論が正確ではありません。論理的度50点といったところでしょうか。

一方、後者は前提「原因が性別とは限らない」と結論「なので分からない」の両方が論理的です。論理的度100点と言えます。

成田悠輔さんと池戸万作さんの意見の相違がまさにこの論理的度合いの差です。

1のまとめ

そこそこ頭のいい人は論理的だが合理的でない。よって、批判は的確だが建設的ではない。超頭のいい人は解決策まで用意する。フェミニズムは「是正」を目的にしているのでそれに準じた批判こそ建設的。

2. 構造規模で考えていない

論理と合理の話は、アンチフェミニストが「女性が不平等に扱われている社会が存在する」ということに同意している場合です。これが、「いや、もう男女平等な社会が達成してるでしょ」などと思ってる場合は合理的かどうかは関係なくなってきます。

アンチフェミニストがこの「不平等社会を是正する」ことに同意していない場合、次の2つのうちのいずれかの考えを持っています。

  1. 男女平等社会はすでに実現されている

  2. 男性だって(あるいは男性の方が)不平等に扱われている

しかし、いずれも社会全体を構造規模で考えていないがゆえの結論です。構造規模で考えれば、いずれの考えも間違っていることがわかります。

2-1. 男女平等社会はすでに実現されている

実は僕も昔はこう考えていました。「男性に(法律上)許されていて女性に許されていないことってなくない?」と。僕はこの考え自体は一利あると思います。

カナダの保守的な心理学者ジョーダン・ピーターソンさんがテレビでこんなことを言ってました。「男女賃金格差の要因が性別だけとは限らない。例えば同調しやすい性格の人は比較的に低賃金になりやすいし、女性にはそのような性格の人が多い。」

つまり、法律や制度上は女性は何ら差別を受けておらず性格の傾向が要因ではないかという主張です。

でも、それって資本主義が男性向けの構造をしているってことなんじゃないかって思うんです。そしてその構造こそ、解決すべき問題なのではないかと思うんです。

簡単な例で説明します。
トラとチーターがいます。この2匹をレースさせるわけですが、かなり近距離でスタートさせると想定します。スタートと同時にトラが威嚇します。するとチーターはまずトラから離れて、それから走り始めます。結果、ロスのないトラがレースに勝利します。

でもこれって能力関係ないですよね。レース自体には関係ない「攻撃的/臆病な性格」や「喧嘩力」が勝敗を決めてしまってるわけです。もし、スタート位置が近距離という構造がなければ、おそらくチーターが勝っていたでしょう。

これがまさに構造規模の問題です。

同様に、「女性はこうであるべき/こうであってもいい」という社会的なプレッシャー/インセンティブが構造に対して逆行した性格を作ってる可能性もあります。親が「女の子らしく」と育てた結果、資本主義社会では不利に働くのです。

まだ、僕の中でも何が正解なのかはわかりません。構造を変えるべきなのか、社会的プレッシャー/インセンティブを無くすべきなのか、何がベストなのかをみんなで考えていく必要があります。

2-2. 男性だって(あるいは男性の方が)不平等に扱われている

「男性だって不平等に扱われている」という主張に議論の余地は無いと思います。僕自身、いろんな形で男性差別を受けてきました。

しかし、「男性だって不平等に扱われているから、女性の地位向上に反対する。」という主張は論理的ではありません。論理的な結論は「女性の地位も男性の地位も向上すべき。」です。

厄介なのは「男性の方が不平等に扱われている」という考えに固執している人です。なぜ、厄介なのかというとこの主張は正しいかもしれないからです。説明させてください。

僕は、男女格差というのは凸凹関係だと思ってます。ある領域で女性が差別され、ある領域で男性が差別されています。特に男性への差別は少し角度を変えなければ見えないのが難点です。

例えば、高い専業主婦の割合がよく女性差別の例として挙げられます。(こんにちの)一般論でいえば、一見そのように見えます。しかし、通勤ラッシュの混雑と劣悪な労働環境で有名な日本でなぜ男性は働きたがるのでしょうか?僕は、女性が「女の子らしさ」を刷り込まされ資本主義社会から引き剥がされたと同じように、男性も「男らしさ」を刷り込まされ資本主義社会に放り込まれたのではないかと思います。

事実、ニートという日本語の定義は既婚女性を除くため、男性に偏ってしまっていた過去があります (Kagawa etal., 2022)。「ネガティブなイメージのある『ニート』になってはいけない」というプレッシャーがあってもおかしくありません。

では、「男性の方が不平等に扱われているから、フェミニズムに反対」という主張は論理的でしょうか?この主張に適切に反論するためには、フェミニズムが「女性が男性より不平等に扱われているから、女性の地位を向上する」ものでは無いのだと強く訴える必要があります。

フェミニズムとは「(少なくとも)社会の主軸となる分野で女性の地位を向上する活動」であって、社会全体で男性と女性どちらが不当に扱われているかではありません。まずは政治やビジネスなどの部分で男女平等に向けて動こう。それから(あるいはそれと同時に)専業主夫や力仕事などの男性地位も向上させていこう、という話なのです。

この構造的なイメージ(社会の主軸vs社会のサブ軸)ができなければなかなか問題の本質が見えてこないわけです。

よって私たちフェミニストは適正にフェミニズムを定義し、しっかり男性差別にも目を向けることが大切です。社会運動として、問題提起(awareness)のステージはすでに通過しています。今後は、どれくらい男性をフェミニスト運動に巻き込めるが鍵になってきます。

2のまとめ

法律上は男女平等でも、社会的プレッシャーなどが男女格差を作る可能性がある。「女らしさ」が資本主義に不向きなのであれば資本主義の構造が男性向きだという可能性がある。また、フェミニストはフェミニズムを適切に定義し、男性差別にも目を向けるべき。

3. 人類規模で考えていない

1では「男女格差は認めるけど批判する人」について、2では「そもそも男女格差という前提に反対する人」について話してきました。3では「男女格差と政策の合理性を認めた上で利己心から反対する人」について考えます。

ここでいう利己心/利己的(self-interested)とは自己中心的(selfish)ということではありません。単純に、自分が不平等に扱われるのを恐れるということです。利他主義(altruism)の対義語です。

例えば、ジーコ(自己)くん、リコ(利己)ちゃん、リタ(利他)ちゃんの三人がリンゴを3個ずつ持ってるとします。ジーコくんは自己中心的なのでリコちゃんとリタちゃんからどうにかリンゴを騙し取ろうとします。リタちゃんは利他的なのでジーコくんにすんなりリンゴを渡します。リコちゃんは利己的なのでリンゴは渡しません。そんな感じでしょうか。(リンゴが3個ずつである理由は特にないのですが)

男女格差を是正するにあたり、一部の男性が損をしてしまうのは事実です。例えば、アファマティブアクション(affirmative action/ quota)では席に定数を設けるため男性の参加率が高かった場合はそれだけ競争率が高くなってしまいます。イメージが掴めない人もいるかと思いますので説明させてください。

例えば、ある会社が毎年100人の新入社員を雇うとします。毎年、男性120人と女性60人が応募してきます。全員の能力に個体差が無ければ単純計算で男性3分の2、女性が3分の1の席を取ることが予想されます。男女関係なく倍率は$${180\div100=1.8}$$です。

ある年から、男女それぞれ50人ずつの定数を設けることにしました。これによって男女等しく2分の1の席を取ることが予想されます。しかし男女で倍率が変わります。女性の倍率$${60\div50=1.2}$$に対し、男性の倍率は$${120\div50=2.4}$$と一気に上がります。この場合、前述した「男性は働かなければいけない」という社会的プレッシャーが不利益として顕著に出てしまうのです。

頭が良くて利己的な人はこれを知ってます。男女平等(equality)への過程として不公平な平等(equity)が生じるのをわかってるのです。

しかし、超頭のいい人は違う視点で考えます。個人の視点から離れ社会や人類という規模で考えます。「他人の利益が周り回って自分の利益になる」という考え方です。

例えば、女性に不利な資本主義社会では女性社員の産休が課題となってます。確かに、利益を出すという目的に対して論理的に考えると産休を与えるのが難しいという主張もわからなくもありません。
しかし、結果日本は今どうなってますか?労働人口も足りず出産率も低下。経済は悪化する一方。まさに利己主義が招いた結果です。

アファマティブアクションも周りまわって自分に返ってきます。女性の社会進出が劣悪な労働環境を変え、男性にとっても働きやすい(生きやすい)社会ができます。そして徐々に「男らしさ」の刷り込みが必要のない構造ができていきます。

要するに、人類規模で考えれば他人の利益は自分の利益なわけです。

最後に: ツイフェミとツイアンチ

ここまで、なぜ(中途半端に)頭のいい人ほどフェミニストを嫌うのかを説明しました。最後にフェミニストという社会運動についてお話しさせてください。

ツイフェミという言葉があります。今やエックスフェミと呼ぶべきでしょうか。ツイッターフェミニストのことで、X(旧ツイッター)上のいき過ぎた男性軽視発言を揶揄する意味合いで使われます。

彼らは自称フェミニストで、真にフェミニストではないと僕は思います。そういった点では「ツイフェミ」と揶揄するツイアンチと同調します。しかし、こういったアンチもまた私の思うフェミニストではありません。

ツイフェミという言葉がネガティブに広まってしまった以上、フェミニストは各々個人で論理的で合理的な定義を持つことが大切だと思います。そして、他の自称フェミニストを徹底して切り離すことが大事だと思います。それは、自称フェミニストに攻撃しているツイアンチに敏感に反応しないということでもあります。自分の定義に徹するのです。

フェミニズムという社会運動は宗教とは違う性質を持つべきです。つまり、フェミニストと名乗ることでフェミニストのイメージを持たれるべきではないのです。「私、フェミニストなんだ。」と言って最初に聞かれる質問は「あなたのフェミニズムはなんですか?」であるべきだと思うんです。

そして、各政策ごとにデモなど集団行動に参加するべきです。フェミニストだから参加するのではなく、産休制度改善というポリシーに賛同して動くのです。

長々書かせていただきました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

英語ですが、自分がフェミニズムを理解できたきっかけとなった記事のリンクを貼っておきます。
Equality versus Equity: What's the difference as we #EmbraceEquity for IWD 2023 and beyond? (公平と平等とは?)


いいなと思ったら応援しよう!