季語警察
「暑いねえ、もう夏だねえ」
―はあ?もう二ヶ月前から夏だけどな。
問いかけに、ついそう答えてしまいそうになるので、気候の会話は極力したくないが、馬齢を重ねるごとに、病気と天気の話は避けられなくなり、というか、スポーツに興味無し、ペット無し、宗教や戦争は言わずもがな、子や孫や配偶者の話は下手をすると、配慮を欠いた自慢に聞こえ、近隣のゴミ出しに関する問題は人によって温度差の異なるSDGS的な問題を内包し、ジェンダーに対する思いもしかりで、初対面だったりすると計りきれず、知らぬ間に傷つけてしまったりするかと思うと恐怖で、無難に芸能ニュースでもと思うと、それもまた地雷だったりして、いや、この地雷という言葉もよろしくない、飯テロなどと軽く言う輩と同一ではないかと、うなだれているうち、冒頭の天気の会話である。
私は俳人だ。俳句を嗜んでいる。俳人と入力すると何故か廃人と変換される。俳号という俳句上の筆名は「四季餡」といい、その名の通り、季節に忠実に日々を暮らしているが、俳句と言うのは、例えば拙句の「旧友と想ひ出語る新酒かな」などのように、季語を中心に日々の暮らしを詠むことが多いので、季節を意識しない訳にはいかず、初学の時分より自然にそうなっていった。だから私は、現在使われている新暦より一月半ほど先に進んでいる旧暦で暮らす心積りでいる。。
夏は五月に、冬は十一月に始まるのは、昨今のように日本が亜熱帯的になろうが、あるいは氷河時代的になろうが変わらず、俳句の全てを司るのは、季語と例句を載せた歳時記で、言わば聖書の様なものであるが、着物を正しく着ようとする人が様々なルールを恐れて自縄自縛しているのを見ると、共感への思いが創作の上で一番大切だと思っている私は、自分だけ落ちもしない金のライターに向けて、無駄に射的のコルク玉を当てているような心持だ。
さて、今は夏のような気温であるが、秋の終わり、冬の隣であり、私は敗蓮の柄の服を着て、秋日傘を差して新蕎麦を食べに行く、という塩梅である。秋日傘などはどこに売っているのかと人に問われるが、そんなものは無くただの日傘で、困ったときは夏の季語に、「秋」を付けているのがいじらしいところであり、他にも秋の花火、秋浴衣、さらには春炬燵、春火鉢などの苦肉の策的なものも山のようにある。こんなに先人の苦悩の元、季語というのは存在しているというのに、誤った利用法や誤認、ないがしろにすることは許せんと、私はいつも憤慨している。そんな私が秘密裏に季語警察官なる稼業を請け負ったのも、さもありなんといったところだろう。
先達を超えてやろうなどという、大きな野望を持たずとりあえず無季で作ってみる軽薄な俳句作成者、一句に二つの季語を使っても良いと思っている季重なり信奉者、現代の実情と合っていないのだから、現実に合う季語―を使うべきだという似非リアル信者達に、鉄拳を食らわすべく、某所から遣わされたのである。
具体的な活動としては、日々自分の俳句の技量を向上させるべく、句会に出る。そして句会で誤りを指摘する。私は季語があって、五七五の形式を守る、有季定型を信条に上げる数多の句会を渡り歩き、啓蒙活動に励む。
それは夏の季語だ、季語が二つある、季語が無い…。講評の折に、丁寧に教えて差し上げる。私の句に関しては、ほとんど点が入ることは無く、無視されているが、私の句を理解出来るほど、知的レベルの高い俳人がいないのだろう。
―季語の重みを食らいやがれ、と大歳時記で頭を殴りつけてやろうか。
指摘してもへらへらとするだけで事の重大さに気付いていない輩には、句会の帰り道に待ち伏せ、厚さ数センチ重さ数キロにも及ぶ、鈍器のように重い大歳時記で、反逆者の脳髄に季語を直接叩き込んでやりたいと思うものの、血や脳漿で聖なる歳時記を汚されるのを恐れている。
息が熱い。
ここ何日か体調が優れない。週末の句会に乗り込んで、ビシッと指摘して季語警察としての任務を全うしたいところだが、どうにも体がだるく、ぞくぞくと悪寒と頭痛がし、いち早く、冬の季語である「風邪」を引いたのであろうか、風邪をネタにいち早く冬の句を作ってやるかなどと意気込むものの、一向に頭が回らず、蒲団を被って床に臥せっているが、思い当たることと言えば、「蚯蚓鳴く」という秋の季語にどこで出会えるのかと、日中三十度以上の気温の夏日が続く中、次回、参加予定の句会の兼題であるセーターに外套、冬帽子、手袋、マフラー、マスクという冬の季語のものを身に着けて、一日中徘徊していたからだろうか。
息が熱い。嫌な夢を見ては、浅い眠りから目覚める。恐らく熱は四十度近い。このまま目を覚まさなければ、殉死ということになるのだろうか、と思いながら、また眠りに落ちる。(了)