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区切り

2008/10/19
(この記事は2008年のものです)


早く区切りをつけたいと、つい思ってしまう自分がいる。
区切りって何だ?

母が小手指の長期療養型病院に落ち着くことか?
1週間に6回ほどの病院通いを、週2~3回に減らせるだろうという見込みが、私の中で一区切りつけさせるのか?

わからない。

まるで、母が早く死んだほうがラクになると、願っている自分がいるかのようで、厭になる。そのくせいざ本当にその時が来たらどれほど辛いかと想うと、これまた厭になる。

母を転院させるということに、やはり私は少し動揺しているのだ。今までほど頻繁に行けなくなるだろうということ。行かなくて済むだろう、そうであっても赦されるだろうという安堵感と、やっぱりちょっとだけ残る、罪悪感。

どっちみち救急病院に長くいることは無理なのだし、介護ホームも無理なのだし、自宅介護も到底無理なレベルだし、都内の旧くて汚く薄暗い療養型病院に比べて、環境も良くて、おそらく空気も少しは良くて、病院もすこぶる綺麗で、対応も丁寧で、他の療養型病院よりも若干高額だけれどそのぶん良いという評判を聞いて、そこに運良く空きが出て、たぶんこれ以上良い条件は、なかなか見つからないのだろうと思う。
下手をしたら半年とか一年以上とか待機することだってあり得たのだ。

どっちみち、治る見込みのない病気なのだから、あとは残された日々をどれだけ穏やかに過ごすことができるか、それだけを考えればいいのだけれど、やはりどこかで母を見捨てたような気がして、ちょっとだけ辛い気持ちになる。

ゆうべ、母の夢をみた。
もう何年間もまともな料理などしたことのない母が、キッチンに立って肉を焼いていた。肉を盛ったお皿を手に、母はキッチンからテーブルにトコトコと歩いて移動する。歩き方がぎこちないなと心配しながら私は見ている。

テーブルの上の料理は、たまねぎと豚肉が炒めてあるもので、お皿から溢れんばかりに盛られていて、すごく不味そうだった。調理台を見ると何も置かれていないので、いったい何で味付けしたのかと、私はちょっと不安になる。

目が覚めて私は、そういえば久しぶりに母の歩く姿を見たと思った。歩けるようになった(という設定の)夢の中の母は、とても幸せそうに見えた。

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