地元の中学にさえ行っていない僕が、地元の成人式で代表あいさつした話。
僕は、地元の中学校に行っていない。だから、地元の中学校の先生の名前すらほとんど知らない。地元の友達もそう多いわけではない。
でも、新成人代表のあいさつをさせてもらった。
こう書いてしまうとなんだか僕が超絶不良ヤンキーだったとか、或いは不登校生徒だったみたいだから、早いうちに言い訳をしておくことにする。
いや、超絶不良ヤンキーはちょっとかっこいい気もするからそのままでも・・・
初めて僕のnoteを読んでくださった方。はじめまして。栗林寿樹(くりばやし かずき)といいます。まずは、この記事を開いてくれて、この文章を読んでくれていて、ありがとうございます。僕は奈良の田舎で生まれ、農家を営む家族に育てられ、アメリカの豪雪地帯に留学したり、インドで書道パフォーマンスをしたり、外国人留学生に日本文化を教えたりしてきました。現在は趣味でスキューバダイビングや、柔道の先生などをしています。自己紹介はこれくらいで・・・ぜひ楽しんでいただければ幸いです。
僕は地元の中学ではなく、私立の中学校に通わせてもらっていた。中高一貫校である。いわゆる”進学校”へと中学受験した組だった。僕の地元は日本全国でも有数──と僕は思っているし、地元のみんなだって思っているはずだ──の”ドがつく程の”田舎だった。同級生は20人弱。そんな中で中学受験をするのは僕だけだった。
小学校も高学年になって、周りの友達がエアガンを片手に──うわあ、懐かしいな──野山を駆け回る中、僕は鉛筆を片手に模試を受けまくっていた。確かに彼ら彼女らのことを「いっぱい遊べて羨ましいな」とは思っていたが、算数の時間はずっとマリオのスター状態だったし、昼休みはみんなとサッカーをしに校庭へ駆け出していた。
小学校は毎日楽しかったし、別に気にはならなかった。
なぜか、そんな毎日がずっと続くと思っていた。
小6の冬、ありがたいことに僕は第一志望だった私立中学校に合格し、それを喜ぶ暇もなく春はやってきた。
当時、僕は驚くほど涙腺が緩かった。小学一年生の時から毎年”卒業式は泣くもの”みたいな固定観念を持っていたんだと思う。そうでなければ5年連続大号泣少年になってはいない。小学一年生で、その年の卒業式で泣いているやつなんて、僕は僕以外見たことがない。
僕たちの卒業式の退場ソングは 春が来る前に/ゴールデンボンバー だった。
いや何だよそのチョイス、と突っ込んでしまいそうになるが。これが笑ってしまうくらい、美しい曲なのである。前奏の時点で既にハンカチはびしょ濡れ。
普段はくだらない親父ギャグばかりの同級生も僕が泣きすぎるあまり、もらい泣き。僕の初恋の相手だった高嶺の花子さんもそれを見て、もらい泣き。それを見た僕がさらに・・・のようにして、涙の循環は完成されてった。
今考えると、引っ越すわけでもなければ、何なら僕以外はみんな同じ中学校に行くというのに、何を泣いていたんだろう、みたいな話ではある。
そして私立中高一貫校に入り、都会の厳しさを身をもって知る6年が始まる。ここのお話は前の投稿でもしているので、よければ。
僕は小学校時代、地元の柔道教室に通っていた。こんなことその当時は言えなかったが、今なら言える。めちゃくちゃ、イヤイヤ通っていた。お父さんお母さん、通わせてもらっている身でごめんなさい。師範の梶谷先生、優しく教えてくださっていたのにごめんなさい。
でも、その当時はとにかく柔道が嫌いで仕方なかったのである。この話も、またいつか、しようかな。
でも、友達は好きだった。道場でいつも仲良くしていた3人組は、とてもまじめな僕をワザと笑わせ、僕だけが何故か師範に怒られていたけれど。道場の女の子は強すぎて試合形式の練習ではボコボコにされていたけれど。厳しい練習を悠々とこなすみんなを尊敬していたし、好きだった。
道場のみんなは僕とは違う小学校に通っていて、中学でも柔道を続けるようだった。
時は流れ
そうして、19の冬。
高校も無事に卒業し、大学にも無事入学・・・とはいかず、浪人中。
「もうあんたも成人やなあ、早いなあ。」と母は毎日のように言っていた。2019年の大晦日、除夜の鐘を突きながら、かつての級友に思いを馳せていた──そういえば、みんな元気かなあ。
中高の6年間、彼ら彼女らと全く交流がないわけではなかった。地元の夏祭りでは一緒に花火を見たし、柔道の合同練習や試合では顔を合わせていた。でも、普段は連絡なんて取らなかった。
しかし田舎のネットワークは速い。○○さんのとこの○○くんが料理の専門学校行ったって。とか、△△ちゃんは流通の会社に就職やて、とか。母は僕よりも僕の同級生の進路に詳しかった。恐るべし情報網である。
それをたまに聞いていたくらいだった。
そんなある日、地元の市役所職員さんにお会いする機会があった。僕は中高時代に生徒会に所属しており、県の教育委員会の方々とも顔見知りだったため、たまたま、すこしだけ世間話をしていた。そんな中だった。突然僕の父と同じくらいの年の彼はこう告げた。
「栗林くん、できたら来年の成人式の挨拶してくれへんかな。」
瞬間、言葉が出てこなかった。僕は中学から地元を出ている身だ。友達も、知り合いも、多くない。僕よりもずっと、適任者がいるんじゃないか。でも、すぐに首を横に振ることは、したくなかった。
「考えさせてください。」
考えた。
浪人時代、僕は電車に乗って予備校まで通わせてもらっていた。中高時代も同じ電車に乗っていた。6年間揺られ続けたワンマン電車。
2両しかなくて、クーラーの代わりに天井に扇風機が付いていて、1時間に1本しか来てくれない電車。
遊ぶところなんてイオンしかなくて───それも家からは車で行かなければならない───あ、これは僕の家が田舎すぎるだけか───中高生はこぞって、その小さなショッピングモールのプリクラコーナーに集結する。
山ほどお寺があって、山ほど山もあって、家が全然ない、僕が生まれ育ったまち。
そんなまち、いやそのほとんどが山、を自分の部屋から眺めていた。
やっぱり、僕はこの街の景色が好きで、この街の人のことも好きで、この街が大好きだった。
地元のみんなと、話がしたい。
僕なりの、僕にしかできない話。
そこからは、つらつらと書くのも無粋というものだろう。
地元のホームページに「新成人代表のことば」募集の文言をみつけ、それに応募した。
応募が多数であれば選考を行うことも書いてあった。別によかった。誰かひとりとでいい。僕と話をして欲しかった。
式の1か月前ほど。1本の電話がきた。
こちらこそ、よろしくお願いします。
ーーー
1月上旬。やってきた晴れの日、見知らぬ同級生たちはとても、それはとても華やかだった。
僕の席は新成人だというのに、固定されているようだった。隣には僕の挨拶のあとに、挨拶をしてくれるペアのような同級生がいた。少し安心していた。彼女は僕と小学校も、中学も、高校も違った。あいさつを引き受けなかったら、この縁もなかったんだろうな。
不思議と、そんなに緊張はしなかった。
ただ友達と、話すだけだから。
そんなことを考えていた。
舞台上からは懐かしの友の顔がよく見えた。もちろんほとんど、数百人は知らない顔だったけれど、なんだか彼ら彼女らさえも、よく知った仲になったような気がした。
恙無く式は終わった。途中で「恩師の言葉」というコーナーがあり、地元の中学校の当時担任をされていた先生方がスピーチをされていた。名前も、同級生たちとの関係性もほぼ知らない僕だが、その先生方はやはり誇らしげな顔をされている様に見えた。
「まあ、こんなに大きくなって」と、全身で喜びを表現しているみたいだった。
号泣少年である、さすがの僕も泣きはしなかった。泣きはしなかったが、こういうの、いいな、と思った。
新聞社の方から取材を受け、舞台上で写真をたくさん撮ってもらった。
舞台から降りると、見知らぬスーツ姿の男性たちが近付いてきてくれた。
「マジで挨拶よかったよ、すごいっす」
「僕○○の友達やねん、ほんまありがとう」
「またどっかで会えたらよろしく頼みます!」
ありがとうを言うのはこっちの方だった。
地元の新たな友達───そう呼んでいいんだろうか、できればそう呼びたい───とひとしきり話したあと、小学校の時からの旧友に声を掛けられた。
「めっちゃ変わったなあ、でもかずきはかずきやなあ」
2秒と経たずに矛盾している言葉じゃないかと思った。そんなことを意気揚々と言える君が、僕はずっと大好きだ。
それから。
人生に一度の晴れ舞台の日から、はや数ヶ月。未だに地元に帰ると、たくさんの人に当日の話をされる。
「あんた、すごかったんやてなあ」
日向ぼっこ中のおばあちゃん軍団でさえ知っている。なんでやねん。
田舎ネットワーク、恐るべし。
両親、家族、同級生たち、市役所の職員さん、先生方、成人式に関わった全ての方に感謝をこめて。