橙の提灯と秋の足音。
祭りの季節が、今年もやってきた。
どの季節が好きか、という質問には秋と答えるようにしている。
気温的にも過ごしやすいし、茶色やワインレッドの服もなんだかかわいいし。
そして何より、お祭りがあるし。
小さい頃から人混みは苦手なくせに「お祭り」は好きだった。お祭り特有の高揚。
なにやらその場にいるみんながニコニコしていて楽しそうで。
夏祭りも確かに素敵だ。花火大会、盆踊り、納涼祭。けれど、僕は秋の祭りが好きだ。
さて。僕にとってのお祭りは、今年も、性懲りも無く、大学祭なわけだが。
大学祭の運営に携わる人数は、実行委員会はもちろん、屋台出店者やパフォーマンスしてくれる方も合わせると、どうだろう。5000人いるか、いないか、くらいな気がする。
うちの大学祭はとにかく盛大で重厚、あまりに緻密だ。そういうことを、様々な学生が自治をした上で勝手にやる。そういう「多種多様」さは、やはり日本一だと豪語したい。
オープニングの11月2日からの三日間に向けて各団体が様々な趣向を凝らす。例えば展示作品を作ったり、パフォーマンスの練習をしたり、キャンパスの飾り付けをしたり。
その膨大な取り組みの中に、提灯を設置する、というものがある。
普段4万人が行き交う広い広いキャンパスに、一つずつ「生駒祭」「近畿大学」と書かれた提灯を吊っていく。
正直言って、途方もない作業である。
派手さはない。地道で、地味な作業である。(僕は去年、提灯よりもさらに地味な「安全柵を作るための杭をハンマーでひたすら打つ」ということを一日中していたものだが)
毎年──といっても僕がある程度のことを分かるようになったのなんて三年生からではあるが──それなりにギリギリまで時間のかかる作業であった。
けれど、今年はそれがお祭りの約10日前にほぼ完成した。
だからなに、というわけではない。例えば毎年よりも実行委員会のやる気があるな!とか、そういうことを言いたいわけではなくて。
恥ずかしながら、まだ「実感」が湧いていなかったのだ。
「大学祭が、もう始まってしまうのだ」という実感が。
今は実行委員長まで務めさせてもらっている身のくせに。みんなの前で、いつも偉そうに拳を振りかざしているくせにね。
自分語りで恐縮だが、僕たち・現在四年生の学年はコロナ真っ盛りの頂で入学した。一年次の大学祭はフルオンラインであった。誤解を恐れずに言うが、もはや「無くなった」に等しい。
二年次に少しずつではあるが対面開催が再び復活し、三年次には飲食屋台もようやく姿を現し、制限もあったが「お祭り」の襷は紡がれた。
そうして、今年である。コロナウイルス、密、といった言葉も先の時代と共に流れつつある今年。
制限なし、大学全面協力、完全復活、という条件下で大学祭を開催できる。
なのに、まだ実感が湧かなかった。そんな大きなお祭りの幕を、切って落とせるというのに。
ただ、今日多くのみんなの協力があって、一つずつ吊るした提灯が。
責任者の彼がスイッチを押して、一斉に点灯するのを見て、その迫り来る足音を、ようやく感じたのだ。
ああ、始まってしまうんだ、と。
僕たちの4年間の幕引きが。
友達もできず、偶然入部し。あまりにもカッコいい先輩に焦がれ、同期としょうもないことで喧嘩し、理不尽に絶望し、辞めてしまおうかと迷い、愛すべき後輩に出会い、目も眩むような大舞台に立ち、くだらないことで笑ってばかりいて。
そうして、全幅の信頼を置く仲間たちと共に、また光り輝くステージに立とうとしている。
きっと、これから先、旗を見て、ポスターを見て、ウォールバルーンを見て、杭を見て、警棒を見て、ジャンパーを見て、立て看板を見て、屋台テントを見て、無線機を見て、当日部員シフト表を見て、弁当を運ぶ台車を見て、学園祭用のネクタイを見て、筆を見て、マイクを見て、同じことをまた感じるのだろうな。
楽しみで仕方がない。
その舞台は、僕たちみんなで吊るした橙が優しく照らしているはずだから。