君たちは理不尽に慣れる必要なんて、ない。
新卒社員、として社会の海に開け放たれてから早2か月が経過した。ここは学校という広いのか狭いのかわからない水槽より、そんなにせわしなくはない。大学は社会の縮図ともいうから、水槽より生け簀とか、そういうののほうが、正しいのかも。
大前提として、
社会人は君たちが思っているほど、そして昔の僕たちが思っているほどつらくなんてない。案外、楽しいものだ。
もちろん疲れることはあるけれど、達成感は学生の時の比ではない。その上お金までいただけるし、今までの自分1人では絶対にしないようなことだってたくさんする。
だから、これからの君達の光輝く無数の未来の道に、ひとつたりとも不安の影があるなんて思わなくていい。
すこし、僕がまだ中高生だった時の昔話をしようか。
「社会に出たら理不尽なことがたくさんあるから、それに慣れないとね。」
「理不尽を教えるために、理不尽にあたったんです。」
「どうしようもないことはある。それを今のうちに経験しておけ。」
よく聞く。よく聞くし、よく言われた。確かに一理あると思う。あの厳しさがあるから今があるだとか、辛いことを乗り越えて人は強くなるだとか。1番辛くてしんどいことに慣れたら、大概のことには動揺しなくなくなった。それをタフさというのなら言えばいいかもしれないが、麻痺という言葉も間違った表現ではないと思う。
僕にとってそれは、例えば絶望的に難しい数学の問題を解けなかったら無制限にやり直しさせられることだったり、脱水症状になるくらいキツいサーキットトレーニングだったり、何度書き直してもダメ出しを喰らう生徒集会のスピーチの原稿だったり。
そりゃそうだよ。そりゃ、耐えれば耐性はつくかもしれない。コケて血を流せば、血小板がかさぶたを作ってくれるだろう。筋繊維は千切れたほど超回復して太くなるし、雨が降れば地は固まるかもしれないし、涙の数だけ強くなれるかも。
けれど。
けれど、だ。
痛いことなんて、理不尽なんて、できるものなら経験したくない。
経験しなくたって、別にいいものだと思う。
よく、覚えている。
あの頃浴びた怒号と、諦めに似た呆れ笑いの表情、膝の上で固めた拳と爪の跡も。
僕は今でも、そういう怒り方だったり、指導をしたりした人の言葉を明瞭に覚えているし、忘れようとしても忘れられない。
まあ基本的に、いつもは思い出せないんだけれど。だいたいそんなことは考えてもいないし。君たちもそうだろうけれど、それ以外の大切なことを思い浮かべるのに忙しいから。
このとんでもなく広くて笑えてくるほど狭い社会には、確かに理不尽というものはあって。
それは別に、僕の会社がどうとか、大学がどうとか、高校が、中学が、とかではなくて。
必ずある。人ひとりがどう考えたって正しいと思うことが、まったく通用しないことが。倫理的におかしいことが罷り通る事実が。
でも、存在しているだけだ。
その理不尽を、仕組みを変えようと思うのなら気合いを入れないといけない。けれど、そうでないのなら、君とは利害関係のない場所にそれらを移動させることはできる。意外と簡単に。
辛いことは、経験しないに越したことはない。
理不尽からは、できるだけ逃げたほうがいいに決まっている。
それで誰かに後ろ指を指されても、嘲笑いが聞こえても、振り返る必要なんてない。ただ歩みを進めればいい。
そうして、遠くに行った先で、声の聞こえない場所で、ほかの善意ある友達と一緒に、彼ら彼女らの幸せだけを祈ればいい。そこに悪意を返す必要はない。君の貴重なエネルギーは、そんなことのために使うべきではない。
教育者として、もしもそういう理不尽を自ら作り出そうとするのなら、そんな行為には心から反対だ。
あとからあれは愛だった、と聞かされたって、気付いたって━━享受した方はそう思い込むしかないのだ。自身に関係する全てのものを肯定したいとおもうはずだから━━もう既にその傷は癒えない。もう痛くなくとも、疼かなくとも、跡は残る。
もっと別の、愛を伝える方法がありふれる世の中から、最適なものを掴むべきだ。教育者だと自負するのなら。
君たちはそんなくだらない理不尽なんて何も知らない場所で、堂々と若人の青春を謳歌していればよろしい。
慣れて、痛みに鈍感になる必要もない。
のびのびと、ゆっくりと、コケたって笑って手を差し伸べられる余裕ばかりの世界を回していけばよい。