2021年12月 宮古諸島へ 大神島篇
3日目:大神島
島に詳しい友人から、ぜひ一度大神島へ行くといい、できれば泊まりがけで、と言われていた。今回の旅の一番の目的でもある。大神島に泊まれるようになったのは最近のことらしい。宮古島の島尻港から小船でリーフの隙間を15分、冬場は1日4往復のみ。スマヌかりゆす号、往復船賃は670円。11時40分発の船に乗った。天気予報では今日は昼から雨、なんとかまだ降り出さずに持ちこたえている。
小さな船に乗り合わせたのは、老婆1名、仕事と思われる3名、女性1名含む3名連れはトイレットペーパーや日用品で一杯のビニール袋をたくさん持ってきている。それにぼく。以上。
島が近づくと少し揺れたが、まあ揺れた内には入らない。
港に降り立つと、眼に入るのが環境美化のためという入島料100円の箱。
さて、今夜お世話になる、おぷゆう食堂へ行こう。ここが宿もやっている。
案内されたのは、食堂奥に立つ2部屋の建物。和室には布団が用意されているだけ。まあ、泊まらせてもらえるだけで十分ありがたいのだが。
島の中をカートで案内してくれるガイドツアーがあるはずなので、着いたときに食堂の、というか宿の2名いるうちの若い方のSさんに参加したいのだけどと言うと、予約してないでしょ、明日ならいいけど、と感じ悪そうに言われた。明日は間違いなく雨。まだ降り始めてない今日のうちに行きたいな。まあ、待っていて、と。そこで、まずは昼メシを。宮古そば。サラダが意外なことにまっとうで美味しい。そばもまずまず。オリオン缶とともに。正体不明の3名、ひとりは黒スーツでノーネクタイ、パンチパーマでサングラス。たぶん、島出身の娘が母親に会いに来たのだろう。いま港に着いたと、電話をしていた。
午後の船で着く二人がガイドツアーに参加するから、それに相乗りするようにと言われた。ああよかった。それまで周囲をぶらつく。食堂の向かいは、昔の小中学校跡。そもそも食堂は、かつては学校関係の建物だったのを、二人のうちの年配の方のOさんが、買い取って改築して食堂と宿を始めたそうな。もちろんOさんは島のご出身、高齢になった親の世話をするための帰島だった(後ほど、単身赴任だと説明されたが)。学校の建物は一切残っていない。
校門脇に貝殻がたくさん飾ってあった。大きなシャコ貝や、立派なサンゴもある。
学校を偲ばせるのはこんな記念碑ぐらい。
目の前の海岸には大きな岩がごろごろ。
浜には様々な貝殻がびっしり転がっていて驚いた。
港には生け簀に使うのか、空気を送り込む生け簀がある。折り返しの船が出るまでの間、船員2名は漁網の手入れを熱心にしていた。折り返しは13時45分発。
やがて、14時半に着く便が到着。と、団体客がぞろぞろ降りてきた。怪しげな先導者がいる。こちらは、カートに乗り込んでお客さんの出迎え。
老夫婦と一緒に、ガイドツアーが始まった。団体ご一行は、まず聖なる岩にお詣りして、お供えなどしている。が、お供えは回収しないといけない。漁港整備工事のため、神様が宿る巨岩を崩したら、関係者がケガをしたり次々とよからぬことが起きたため、岩の一部をここに祀って祈るようになったという。
こちらは戦争中の米軍の燃料タンク。昔は島では飲水は限られた井戸から汲むしかなく、このタンクで雨水を貯めたり、宮古島から汲んで船で曳いてきたりしたという。
坂の途中に、唯一の飲用水を汲んでいた井戸、フタカーがある。
島内の家々の多くは、門にスジイガイの貝殻を魔除けとして付けている。内地でよく見かけるシーサーは島では手に入らなかった。
さらに坂を登ると、先ほどより大きな井戸。カフカヌカー。こっちは飲用にはしなかった。カートはここまで。
その先は遠見台までの上り坂。途中、開けた畑があってバナナが栽培されている。92歳の方が世話をしているそうな。すごい。行き来だけでも大変そうなのに。島には現在、20名あまりが暮らしているが、最高齢は97歳、最年少は54歳。そう案内役のSさん自身だ。
その先からは木製の階段。
てっぺんまでの途中、右手に拝所がある。団体でやってきていた一団は、狭い場所で順に拝んでいる。おや、足下に三角点を発見。三角点マニアに農国してやらないと。
さて、くたびれてきた頃、遠見台到着。おお、素晴らしい。絶景なり。雨でなくて本当に助かった。神様のご加護があるのかな。池間島が目の前に横たわっている。
島の南東側には、岩に囲まれた浅瀬が見える。
そして、北北西には、大潮の時に幻の大陸が浮上する八重干瀬(やえびし)が見える。
実はここまで、島の唯一の犬、12歳のユリちゃんが先導してきてくれたのだ。犬は1頭しかいないが、猫は何十匹もいるそうだ。島には猫がつきものだからね。
さて下山。そもそも山の一帯には、6月から10月にかけて4回行われるウヤガンという祖神祭の時は、島の人でさえ一切立入禁止となる。神に仕える女性だけが、山の中の島の人も見たこともない近寄ったこともない特別の家に籠もって飲まず食わずで一睡もせず祈り続ける。昔はその女性が10名以上もいて、山の中を歩きながら唱える祈りの声が、麓の島の人々にも聞こえたという。現在、神に仕えるのは89歳の女性ただひとり。その方がもし亡くなったら、ウヤガンは途絶えてしまうと言われているそうだ。この秘祭は写真やカメラなどの取材を一度も許可しておらず、記録は一切存在しない。
さて、ふたたびカートに乗って、島の北側へ。一周道路は一周できないまま、途中で分断されている。北側の海には、いつバッタリ倒れてもおかしくない細い支えの岩が浮かんでいる。いずれいつかは倒れる。
そして道路の果てはこんな感じ。台風でめくれ上がっている。
海の中を見れば、カニもいれば、青い小魚もたくさん泳いでるのが見える。
周回道路ははじめはもっと陸側を巨岩を砕いて作ろうとしていたが、やはり不可解な事故などが続き、一度砕いた岩を元通り集めて戻し、もっと海側に作り直した。その痕跡が見られる。
さらに港を過ぎて、島の南東側に御嶽がある。
その真ん前の防波堤の一部が削り取られている。コンクリートをわざわざ削ったのは、海から神様が上がってくることができるようにするためという。さすが神の島。そろそろガイドツアーも終了。なかなか濃い内容のツアーだった。
16時45分に島を出る最終便。その後は、島民以外にいるのは、ここに宿泊するぼく一人、となった。17時前から、食堂でビールを飲み始めた。
と、Oさんがこちらの名物タコの燻製、カーキタクの端っこをタマネギと炒めたよと、つまみを出してくれた。宿泊はひとりだと1泊朝食で4000円。夕食は食堂で実費支払いというシステムなのだ。うーん、この燻製が味が染みていて旨い。泡盛にチェンジ。
いい調子で吞んでいると、今度はパタレという小魚の刺身を出してくれた。小ぶりのカタクチイワシのような青魚。手で開いて骨を取ってくれているが、完全には取り切れていないので注意しながら食べる。感動的な旨さ。ご自身たち用には、骨も取らず、そのままで食べながら骨を出している。で、当然、Oさんも一緒に吞む。そのうち島の人が1名、吞みに来た。ここは島民の居酒屋でもある。やがて、Sさんも加わって飲み会。Sさんは54歳というのに、○○坊、と二人から呼ばれて子供扱い、カワイイというか気の毒というか。Oさんは来年5月で引退予定という。10年以上、単身赴任で働いたからもう十分と言うことか。沖縄本島の家族の元へ帰るそうだ。後はSさんが継ぐ。そんな話をしながらあれこれ。そうそう、今日一緒の船で来ていた女性は、島の人ではないそうな。あれ、確か老女に持ってきた日用品を数袋渡したりしていたのに。老女こそ、最後に残った神に仕える人だった。要するにスピリチュアル系のおっかけだったということか。皆さんが、あれはどこの誰だったのかと不思議がっていた。パンチパーマは雇われ運転手だったらしい。団体一行は、先導の女性がいつもいろいろな人を集めては連れてくるのだとか。ヘンな人たちが来る所なんだなあ。
そんなこんなで飲み食いしていたら、いつの間にやら22時を回っていた。Oさんと島の人は早々に帰っていった。いつの間にか雨が降り始めていた。残ったSさんも後片付けを始めたので、片隅の本棚の本を数冊借りて、部屋に引き上げた。島に何年も何回も通い詰めて写真集を出した人もいる。祭のカットは1枚もない。
4日目:大神島
夜通し雨風が激しいようだった。朝になってもまだ雨は降り止まず。まだ薄暗い7時前、屋外のトイレに行くと、ちょうどSさんが来て食堂を開ける所だった。朝食はこんな感じだった。
それにしても貴重な体験だった。2室しかないので、夏場などはなかなか空いていないようだ。精算を頼むと、朝食込みの宿泊費4000円、ガイドツアー2000円、その他1100円。すなわち夕方からの飲食代(昼食と昼夕の缶ビールだけは現金払いした)は、泡盛を何杯飲んだか分からず、おつまみも他に鶏の唐揚げやサラダなども出してもらった、1100円だったみたい。
雨が降る中、朝一番の船、8時15分発で神の島を後にした。食堂から船まで200mほどの距離、今回の5日間の旅の間で、唯一傘を使った瞬間だった。