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乗り鉄☆たびきっぷでめぐる 東海のローカル私鉄と第3セクター線 三岐鉄道北勢線

三岐鉄道北勢線とは桑名駅に隣接した西桑名駅から内陸のいなべ市の阿下喜駅までの結ぶ私鉄の路線。全長20.4km、桑名市街地から鈴鹿山脈に向かって員弁川の北岸を進む。終点まで乗り換えできない盲腸ローカル線で、沿線に著名な観光地があるわけでもない、地域密着の路線ということで乗りに行こうと思わないと乗れない路線だった。

三岐鉄道北勢線

JR関西本線、近鉄名古屋線、養老鉄道線とこの三岐鉄道北勢線が乗り入れる桑名駅。JRや近鉄の一部特急も停車する主要駅で、三重県最北の名古屋の植民地都市。北勢線の起点駅は西桑名駅と言って、JRや近鉄の駅の東南の方向にある、乗り換え時間は3分くらい。元々の北勢線は桑名駅を通らずに桑名駅の南側から市街地中心部へ直進し桑名京橋駅(開業時は桑名町駅)が始点となっていた。国道一号線の踏切をなくすために、関西本線に並走して桑名駅を目指すルートに変更された。その時に桑名京橋駅の一駅手前の西桑名駅(開業当時所在地が西桑名町という自治体名だったことに由来)を移転したという扱いにしたため、今でも西桑名駅を名乗っている。

西桑名からは桑名市街地を通るので車窓には住宅街や、工場などが結構並んでいる。ラッシュ時は通勤通学利用客も結構いると思われる。

東員駅は2005年に隣接駅を廃止して新しく作った東員町の主要駅で、運行管理とかはこの駅で行われている。阿下喜方面に少し行ったところに車両基地もある中心駅。とはいっても市街地という感じはない。そしてイオンモール東員への送迎バスが電車に合わせて運行されている、地方を象徴する駅かなと。

楚原駅。桑名市街地外の中間駅で一番大きい駅。日中は西桑名-阿下喜が1本、西桑名-楚原が1本が交互に運行されているのでこの駅までは30分に1本と本数がある。楚原駅から麻生田駅の間は景色がいいところを通る。途中の眼鏡橋とねじり橋がスポットのよう。乗ってると橋は見えないけども。


参道に踏切がある八幡神社

終点の阿下喜駅は阿下喜温泉が売り。今回は時間の関係で温泉には入らず。とはいっても隣接する操車場跡地には、電化された最初の車両が保存されている軽便鉄道博物館がある。沿線有志による無料の博物館で開館は月2回。北勢線の歴史や、小物が展示・紹介されているだけでなく、足漕ぎトロッコに乗れたりと家族連れも多かった。狙ったわけでなくたまたま開館日だったのでラッキー。

三岐鉄道の公式HPはなかなか歴史を感じさせるし、沿線紹介も古いものを大切にするというか実直というか、普通は多少盛ってでも映えスポットを紹介する地方鉄道が多いんだけども。キャラクターグッズ作ったり、インスタもちゃんとやってるし。嫌いじゃないよ。

北勢線の歴史

東海道や伊勢街道が木曾三川を渡る場所に位置する交通の要衝だった桑名は、1895年には関西本線(当時は関西鉄道線)が開通して名古屋と大阪へ鉄道がつながった。後述するけど軽便鉄道法が制定されると、内陸から桑名中心部へのアクセスのために北勢鉄道が建設された。北勢とは三重県北部のこと。阿下喜駅手前の山間部分は工事が難航し、全線開通は1931年。全線開通と同時に早々電化している。その後、戦時下で三重交通などに統合されていたが、1965年に近鉄に買収され近鉄北勢線となった。

2000年、近鉄は経営改善のため北勢線は廃線・バス転換の方針を打ち出したが、沿線自治体からは鉄道維持を希望。しかし沿線自治体による第三セクター会社設立するには時間が無いため、沿線自治体がすぐそばで鉄道を運営している三岐鉄道と交渉。沿線自治体が北勢線の土地を買い取り、鉄道運行や線路設備維持管理費用を一部補填をするという形で2003年に三岐鉄道へ譲渡、三岐鉄道北勢線として生き残ることとなった。

この三岐鉄道は、北勢線の全線開通と同時期、員弁川をはさんで並走する形で藤原岳のセメントを富田(四日市)に輸送するため北勢線に競合して開通させたものが起こり。なので三岐鉄道の三岐線とこの北勢線は線路も繋がっていないし、国鉄富田駅に乗り入れるため線路の幅は1067㎜を採用している。開通当初は当時は北勢線は旅客需要が大きく名古屋へも近いことから成績は良かったよう。高度経済成長期には名古屋に近いということもあり宅地開発も進んで、経営も安定していた。とはいえ時代は変わり現在の姿に落ち着いている。

正面に見えるが藤原岳。太平洋セメントが石灰岩を掘り出しているので山肌が剥げてる。その石灰岩で作られたセメントを輸送しているのが三岐鉄道三岐線。

ナローゲージについて

この路線の特徴は日本でも3社でしか採用されていないナローゲージという特殊な線路幅を採用しているところ。ナローゲージとは線路の幅が762㎜という文字通り日本で一番採用例の多い一般的なJR線で使用している1067㎜に比べると狭い(1067㎜も狭軌って言うから同じ意味なんだけど)。線路幅狭いということはそれだけコストがかからず小回りが利くということで、1909年(明治42年)の軽便鉄道法制定により民間鉄道敷設のハードルが下がったため、明治末期から大正時代以降特に地方都市でたくさん採用されてきた

大抵はよりスピードが出せて大量輸送できるよう線路を改修されたり、その改修費用が捻出出来ないようなエリアでは、道路が整備されたことでバス転換がどんどん進められている。その時代に取り残された?と言えるのか、その特徴を活かせたというのか、現存するのは三岐鉄道北勢線、黒部峡谷鉄道、お隣の四日市のあすなろう鉄道線の3社のみ。桑名駅は近鉄の1435㎜、JR関西本線の1067㎜、そして北勢線の762㎜が並走している、その3路線を渡れる踏切があるので比較できる。

北勢線 762㎜
JR関西本線 1067㎜
近鉄線 1435㎜
北勢線のイラスト
西から北勢線・関西本線・近鉄線と並んでいて、近鉄線が一番本数が多いので別の踏切になっている。

線路幅が狭いのでもちろん車両も小さい。両側に人が座ると真ん中を歩くのは気が引けるくらい。天井も低いのでおもちゃの電車に乗ってるみたいなそんな感覚。電車なんだけど一般的な電車と違って路面電車のようなモーターと車軸を直接ギアで繋げる方式なので、路面電車っぽい駆動音がするとのガタゴト感が強い。一般的な電車の駆動方法はモーターから継手を介しているので、車輪の揺れを吸収しやすい。小さい車両だと機器を設置する場所が限られているので、このような駆動方式が残っているともいえる。乗ってみてわかるけど勉強になるね。

幅2.1m、1両の長さ15m。長さはともかく幅はJRの車両の3分の2くらい。
連結部の箱はトイレではなく空調機器。普通は屋根と床下にあります。
パンタグラフは普通の電車と同じサイズなので対比ででかい

同じ線路幅を採用してる黒部峡谷鉄道。トロッコで有名。

線路幅について

この線路幅というのが日本産業・工業史における混沌の元凶であり、面白さの歴史ともいえる。線路幅が違うということは、車両も運用技術もそれぞれ用意しなければならないし、線路幅が同じなら直通ができる。そもそも近代鉄道発祥の地のイギリスが議会で1435㎜を標準とすることを決め、その歴史からヨーロッパではほとんどの国鉄が1435㎜を採用しているので、国際列車が簡単に走れる土壌がある。日本の鉄道では様々な要因で新橋~横浜で1067㎜を採用、それがJR線に引き継がれているので東京から北海道だろうと九州だろうと直通列車が走れた。

ただ新幹線の技術はスピードと安定性に有利な1435㎜幅を採用、その結果東北新幹線から山形新幹線や秋田新幹線を分岐させる際に在来線の線路の幅を変更しているのは有名な事例。しかしながら九州新幹線の長崎ルートでは、途中で線路の幅を変更できる車両(フリーゲージトレイン)を開発することで博多からは九州新幹線、佐賀県内は在来線を通って、長崎県内はまた新幹線の線路を走るということを計画していたけども250km/h超で走れるフリーゲージトレインは課題が残るということで開発をとん挫、ここにきて佐賀県内に新しく線路を敷くのか、山形新幹線のように在来線を改修するのか、金がかかることなので大揉めしてる。JRの線路幅を変えるというのは、貨物列車が走れなくなるので国家運営にも影響する話になっている。

高度経済成長期であれば各社が直通運転とか効率を考えて大規模投資もできた。都営地下鉄最初の浅草線はもともと京急線と直通するために1435㎜を採用、反対側の京成線は1372㎜という東京市電の規格を使っていたので、わざわざ線路幅を変更している。そのおかげで成田と羽田を乗り換えなしで移動できるようになった。逆は都営新宿線で、京王線と直通運転するために1372㎜に合わせている。



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