近鉄電車全部乗る③ 山田線・鳥羽線・志摩線
三重県の本体一大観光地の伊勢へのアクセス路線であり、さらにその先の鳥羽や志摩の賢島駅まで至るのが、山田線・鳥羽線・志摩線。伊勢志摩エリアへの観光超特化路線として近鉄大阪線・京都線方面と、近鉄名古屋線方面の3都市から直通特急が乗り入れてくる。伊勢中川駅を境に大阪線、名古屋線、山田線に分かれ、宇治山田からが鳥羽線、鳥羽からが志摩線となる。大阪難波駅から賢島までは176.9km、伊勢中川から賢島までが66.0kmの距離。
山田線
日本を代表する参詣場所である伊勢を目指して、近鉄の前進である大阪電気軌道の桜井駅から名張経由で伊勢方面へ延伸を進める参宮急行電鉄という会社が設立される。1931年に伊勢神宮の玄関として先に開業していた国鉄山田駅(現 伊勢市駅)、終点の宇治山田駅までの区間が開業。宇治山田とは伊勢神宮外宮の門前町「山田」と内宮の門前町「宇治」の意味で、当時の市名は伊勢市ではなく宇治山田市だった。1955年に周辺町村の合併で伊勢市になった後の1959年に山田駅も伊勢市駅に改称されている。
同時期に津方面から伊勢へ南下し並走していた伊勢電気鉄道を吸収統合、また近鉄名古屋線の元となる関西急行電鉄が設立され名古屋から津への路線を開業し、近鉄グループによる大阪・京都・名古屋の3都市から伊勢へのアクセスの原型が完成する。旧関西急行電鉄系の近鉄名古屋線の名古屋から津(江戸橋駅)は1067㎜幅と線路幅がことなる状況から、名古屋線が1435㎜へ改軌され、直通運転ができるようになった。この名古屋線改軌の歴史は近鉄はおろか日本の鉄道史におけるレジェンドエピソードなのでほかの詳しいサイトや近鉄の公式サイトを参照ください。
鳥羽線・志摩線
鳥羽線と志摩線はまた別の歴史をたどっている。志摩線は地元企業の志摩電気鉄道によって、国鉄参宮線の終点の鳥羽駅と志摩地域の磯部や鵜方といった町を結ぶ路線として計画され、最終的には景勝地であった賢島への観光アクセスを見越してて賢島駅、さらに真珠養殖のための資材輸送のために貨物駅の真珠港駅までの区間が開通する。戦後、三重県内の各交通事業者が合併して三重交通社となり、近鉄が三重交通を買収して近鉄志摩線となる。近鉄買収当時は国鉄参宮線に合わせた1067㎜で、他の近鉄線とはつながっていなかった。
宇治山田駅から志摩線の鳥羽駅へは宇治山田駅の3Fホームに横付けされた連絡バスに乗り換える必要があった。大阪万博開業を見据え、志摩地域への誘客や開発を一層進めるべく山田線の終点の宇治山田駅と志摩線の間を接続する鳥羽線を大阪万博と同じ年1970年の開催2週間前の3/1に開業、同時に線路の幅を近鉄山田線の1435㎜に改軌され直通できるように改良。目論見通り大阪や名古屋から直通特急が乗り入れられるようになった。
実際に志摩地域や賢島はリゾート地として開発され、真珠養殖も日本一に規模となった。その結果が伊勢志摩サミット開催でもあり、バブル期の遺産の近鉄名物自虐レジャー施設の志摩スペイン村でもある。
この路線の特徴はなんといっても多数の観光特急で、大阪と名古屋から1時間に1本ずつ以上の特急をベースに、乗ることが目的にもなる豪華リゾート列車のしまかぜなども運行される。伊勢市あたりは観光地だけでなく三重県内の都市としても大きいため通勤通学需要も多く普通列車や追加料金不要の急行も多数運行される。一方、賢島に近づくにつれ普通列車の本数は減り特急メインの路線となる。
といってもJRが非電化単線で2両編成で鳥羽までしか行かないのに、賢島まで全線電化で多くの区間で複線化、本数も編成も数倍の近鉄。伊勢市駅や鳥羽駅などの主要駅の利用者数を見ても軒並み近鉄が4~5倍の利用者数を誇っている。三重県が近鉄王国と呼ばれる背景は、近鉄の伊勢への執念のたまものといえる。