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ソウルに行かない韓国旅行 新羅の都 慶州

韓国滞在3泊目と4泊目は韓国南東部にある都市 慶州(キョンジュ)。慶尚北道の都市で人口25万人程度と町としては大きいとは言えないながらも、7世紀末に朝鮮半島南部を実質統一した新羅の都 金城がこの地に置かれ、韓国においては奈良や京都のような古都という位置付け。韓国初の世界遺産となった石窟庵と仏国寺と、慶州歴史地区として新羅時代関連で2つ世界遺産を擁する歴史観光都市でもある。この辺りは後ほど詳しく。

新羅時代のものではないけど市内に城壁が一部残っている
中心部。朝なので人がいない。夜もそんなにいないけど。観光地は人いっぱいなんだけど。

新羅が力をつけたのは、日本では大和政権が誕生し朝鮮半島や中華と積極的に外交をしていた6~7世紀。朝鮮半島では新羅・高句麗・百済の三国時代と呼ばれていた時代。中国の唐の勢力拡大で高句麗と百済は滅ぼされるものの、朝鮮の独立勢力を維持し半島南部から唐を押し返して統一したのが新羅で、その後10世紀に高麗の南下によって消滅するまで朝鮮半島を統一し金城(慶州)に都が置いていた。

朝鮮の都としてはその後朝鮮半島を統一した高麗の都は現北朝鮮の開城、その後の朝鮮王朝は漢城(現ソウル)となり、慶州は高麗時代に現在のように慶州と呼ばれるようになり、朝鮮王朝時代に慶州と尚州を指す慶尚道が定められたものの、この地域の中心都市は大邱に移って現代に至っている。

今の慶州市の市街地は羅時代区画の北側に位置していて、新羅時代の区画はほぼ史跡公園として整備されていて、復元などもほとんどされていないのでだだっ広い空間が広がる。町の印象としては、観光都市だけど外国人観光客だらけというほどもないし、都会過ぎず、韓国に何を求めるかにもよるけどいい町だと思います。

慶州で最初に向かうのは市街地南東部14kmくらいのところにある仏国寺という寺院と、仏国寺の裏山にある石窟庵という仏教遺跡。この仏国寺は新羅時代の6世紀から建立された仏教寺院で、韓国でも随一の古刹として、1995年に韓国で最初の世界遺産にも認定された史跡。慶州観光では皆が行く場所だと思う。

市中心部からが10番と11番の循環バスが15分に一本位ある。結構混んでて立たないといけないレベル、昼間はもっと混んでた。事前に別の人の旅行記とかみてたけど、バスはかなり飛ばして危ないっていうけど、まぁ日本以外のアジアでは標準的なバスだなと感じました。

新羅滅亡後、朝鮮王朝時代は特に儒教化が進み仏国寺などの主要寺院以外はほとんど取り壊されている。日本でも朝鮮有数の歴史ある寺院として記録があったらしく、戦国時代の朝鮮出兵では加藤清正軍がこの地に逗留したとのこと。当時の記録ではその時点で荒廃していて、朝鮮側との戦闘で残っていたものも焼失した。その後、20世紀初頭の朝鮮併合時には日本帝国政府が調査をしているものの、その時の記録は韓国歴史学の間では認めてられていない。ただ、日本帝国時代でも仏像などを持ち出さず、ちゃんと現地で学者に調査させているので、紳士の国とは違うかもしれない。

日本は確かに朝鮮半島を植民地化して併合しているとは言え、やはり日本史において大陸文化の発信地の1つとして朝鮮半島をかなり神秘的なものとしてとらえていたと思われ、事実日本帝国時代にかなりの調査が行われていて最も古い白黒写真の多くは日本帝国時代のものとして記録として残っている。文化的先進性を持つことも当時のアジアの盟主にならんとする矜持だったのかもしれない。一方で戦後の韓国の歴史学者においては、日本帝国時代の調査・修復をどのように扱うかはかなり頭が痛い問題のようで、愛国史観的には全否定すべき物としてとらえられるものもある。

市内からは20~30分もあればつきます。ちなみに入場無料です。
寺の本殿などは基本的にすべて近年の再建、手前の多宝塔は修復されながらも8世紀頃からこの地にあるもの。
願いを書いて灯篭を吊るす
現代韓国はキリスト教徒が多い国で、仏国寺はマイノリティながら現役の寺院としても信仰を集めている場所。
境内に色とりどりの灯篭が並ぶ
韓国にも瓦を寄進する文化あるのね。
仏国寺から石窟庵の入り口へは12番のシャトルバスが1~2時間に1本運行されている。徒歩だと1時間の登山になる。
山の中の10分ほど進む。
中は撮影禁止。山の中の小さな洞窟に石仏が置かれ彫刻などが安置されている、これ1つです。郵便配達員がたまたま雨宿りした洞窟で石仏が見つかったのがきっかけで発掘された。

 仏国寺と石窟庵で結構時間かかるかと思ったけど、石窟庵へのバスの時間調整は必要でも2~3時間で十分すぎるくらいだった。世界遺産の寺院というイメージ先行だったけど、仏国寺も石窟庵もオブラートに包んでいえばこじんまりしている。京都奈良の寺院とか、石窟だと中国の莫高窟とかと比較に値しないかと・・・。ということもあり9時にはついてたけど昼前には出立することに。そのあと仏国寺の町で食事をとって、廃駅となった仏国寺駅などを見てから、市内方面へ戻ることに。

お昼に廃駅の仏国寺駅のそばで食べたミルミョン(小麦麺の冷麺)がとても美味しかったです。この日も蒸し暑くて、シャーベット状のコクのあるスープに、辛いタレやキムチの酸味が染みわたる。奥の肉はこの店の名物らしく、小さい燃料の上であぶられてる肉です。この地では有名店らしくひっきりなしに人がきて、私が出るときには数組待ちでした。有名観光地に近いのに外国人は私一人、こういう店が良いんですよと。この旅No.1の食事でした。ちなみに10000Wくらい。

市内へ戻って慶州国立博物館や周辺を散策。慶州国立博物館は無料で、炎天下で歩き続けていた私にはオアシスで、少し昼寝をするなどしていました。そのあとは新羅時代の中心部エリアを散策。

月精橋。新羅時代の橋を復元したもの。
月精橋の付近は古い町並みが再現されている地区。
月城あと。この丘上に新羅の宮殿があったとされている。
月城横にあるのが国立慶州博物館。新羅時代の軒丸瓦(鬼瓦)。
この瓦のモチーフは、慶州市バスのマークにもなっている。

ここからは飯食って夜の散策。この日はこれでもかというほど歩きましたが、治安も心配ないし少し涼しい夜の散策もいいですね。

水連団地
復元された離宮の雁鴨池
ライトアップされる月城。
新羅時代の天文台の遺構と言われている瞻星台。
昼間の様子。今は周辺はだだっ広い公演だけど、新羅時代は市街地が広がっていた。
古墳たちもライトアップされていて、このセンスは日本には無いので好き。

翌朝は市内の観光。前日は夜景を見たりとかなりの距離を歩いていてすでにたくさん目にしているのですが改めて古墳にフォーカス。慶州市街地と月城などのある旧王宮エリアの間には金冠塚など単体でフォーカスされたものや、大陵苑、仁旺里古墳群と呼ばれるものすごい数の古墳がある。都のこんなそば王族が多数埋葬されているのは結構不思議ではある。この古墳群とともに歴史地区は世界遺産として登録されている。

慶州国立博物館の展示の通り右下の赤い丸がすべて古墳。

金冠塚古墳は特に2023年にリニューアルされ、展示室がかなり整備されて、情報も多くとても勉強になりました。案内員もとても親切で日本人だとわかれば日本語の案内もあると教えてくれたり。ここもどうしても日本統治時代に発掘されたことから、当時の調査記録は信用できないような雰囲気が出ているのは、なんとも複雑な感じ。

金冠塚古墳は慶州の古墳群で初めて金冠が出土した古墳。以前より塚として何らかの信仰の場所とされていたようで、日本統治時代にが道路を整備しようと調査をしたところ金冠や鉄剣など数万点の副葬品などが出土して、位の高い人物の墓ということが分かった。そのことから金冠塚と命名された。
1965年の空撮を見ると、住宅の裏山みたいな形で建物が隣接しているのがわかる。
2015年の空撮を見ると、かなりの住居を立ち退かせて、中央の大陵苑と呼ばれる区画や、その東側の歴史地区を公園化しているのがわかる。
これは金冠塚ではなく、戦後に天馬塚で発掘された慶州を代表する金冠。慶州国立博物館蔵。これほどの物が盗掘されずに20世紀の調査で出土するのはすごいことではある。新羅の都を金城と呼んでいたのは伊達ではない
これらが代表的な副葬品。
慶州でたぶん毎年行われている鳳凰台ミュージックスクエアというイベントの跡片付け。鳳凰台と呼ばれている古墳を背にステージを作るのはなかなか面白い。日本ではできない発想。まぁ言い方悪いけど腐っても墓なので、日本内地でこの使い方は難しいかも。でもこれだけ生活の風景に溶け込んでいるのは弔いという意味でも一つの在り方かと思います。
古墳が沢山ある公園の木陰で老人たちがだべっている。これもまたよきアジアの風景。
大陵苑は新羅時代でも比較的古い時代、6世紀以前古墳が沢山ある場所。
慶州仁旺里古墳群

郊外に目をやると比較的後の時代、6世紀後半の大型の古墳が増えてくる。ただ日本と違い、前方後円墳のようなものはなくすべて円墳になる。時系列が前後するけれども、市内と仏国寺の間にあるのが聖徳王陵で新羅33代王の聖徳王陵。日本で言うと奈良時代の王。古墳に至る道中に、人の居なさ加減がとてもいい古墳だった。

幹線道路沿いの聖徳王陵バス停を降りて少し奥まったところにある。
街道から道なき道を入るのでためらうけど一瞬です。
途中は廃線になった東海線の線路跡を渡る。これ廃止されたの2021年末だからまだ3年経ってないけど綺麗に線路が無くなっている。
森の中に古墳がぽつんと。かなりいい雰囲気。
聖徳王陵

慶州中心部から南西の外れにあるのが武烈王陵。ちょうど市内から慶州駅に行く途中にあるので、慶州を発つときに途中下車して訪問。

武烈王は在位654年~661年の第30代新羅王、息子は第31代で在位661~681年の文武王と新羅が高句麗と百済を撃退し、唐を押し返し半島統一の礎を築いた。文武王の墓は日本海に面したところにある。
墓を守る亀趺。この碑文により武烈王の墓ということが分かったらしい。
武烈王陵に並んでいるのが西岳洞古墳群で、武烈王の祖先にあたる王族の墓と推定される。
台風のせいで墳丘が崩れたことをきっかけに2024年から発掘調査が開始されているらしい。どうも慶州中心部の5世紀の古墳は石積式、武烈王陵など6世紀後半~7世紀の様式は石室を作るものだったのが、この西岳洞古墳群も石積式の特徴があり歴史的定説が覆されるものの可能性があるとのこと。
この武烈王陵の目の前から慶州駅行のバスに乗れるので、移動の途中に寄りました。
慶州駅。KTXの新慶州駅として開業し、在来線もすべてここに統合された。慶州市郊外に駅前には慶州中心部には存在しない高層マンションが林立。

一方、市内中心部を通っていた東海線の旧慶州駅は展示施設として残っている。そのうち駅構内も何かに再整備されるんだろうか。

(旧)が付いた慶州駅。
駅前は目抜き通りがまっすぐ伸びている。
同じように東海線の慶州の南隣の仏国寺駅も同時に廃駅となっている。こちらはKTXの駅もなく完全に鉄道駅としては地図から消えてしまった。
ホームも草に侵食されている。
仏国寺駅から少し離れたところ。この辺りはまだ線路が残っている。



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