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庭を造る 第二話

第二話

「それにしてもいっぱい出たね」
「いっぱい出たな。どこまで掘ればいいんだろうな」
「兄貴がもういいやってとこまででいいんだよ」
 夜中にご近所さんがやってきた、その翌日。
 僕らは、珍しくふたりして庭にいた。
 昨日の今日だから、またあいつが来ないか見張っていてあげるよ、と言った弟を断る理由もなく、僕は朝から弟と庭の穴を掘りまくった。戦果がこれだ。庭に広げられたレジャーシート。そこに並ぶ、子どもの衣類と、おもちゃのがらくた。
 改めて見るとそれらはただのゴミで、昨日のご近所さんはなぜこんなものが欲しかったのだろう、と不思議な気分になった。僕のファンならば僕の私物を欲しがるほうが自然だ。僕が掘り出した、という事実のほうが大事なのだろうか。それか、子どもにまつわるものが好きだとか。純粋に子どもの皿やビニールプールの残骸が欲しいとか。
 ありったけの理由を考えてみたものの、どれもこれもしっくりこない。ご近所さんの子どもはとっくに大人になって、この界隈を出て行ったと聞いた。近所には他の子どもの気配もない。死んだように静かな町だ。
 唯一気配があったとすれば、あの、庭の隅の子ども。
 僕が庭の隅で見かけた、いるのかいないのかわからない子どもの気配。深い緑の中で見かけた幻影。あれだけだ。
 僕は手にしていた子ども用の皿をしげしげと見つめ、夏休みの残骸の前へ置いてみた。これだけでもいいが、何か上に載せるものはないか。ひょっとして、と思ってポケットを探ると、くしゃりという感触がある。取り出してみると、ポケットに入れたまま忘れて何度も洗濯してしまったあめ玉だった。ご近所さんの老婆にもらったそれを、僕は皿の上に載せてみる。
 弟は不思議そうに聞いてきた。
「何してんの」
「お供え。ゴミになっちゃった夏休みが、段々可哀想になってきてさ。供養したほうがいい気がしたんだ」
「さっぱりわからん。でも、なんかいいね」
「ほんとにそう思ってる?」
「さあ?」
 肩をすくめて見せたのち、弟はバネを利かせて立ち上がる。へらりと笑ってカメラを指さし、弟は僕に聞いた。
「今日掘れるぶんは大体掘ったし、兄貴の言うところの供養も済んだみたいだし。録画する?」
「うん。録画ボタン頼める?」
「あいあーい」
 間延びした声で答え、弟が三脚のほうへ大股で歩いて行く。要領のいい彼は、あっという間に小型カメラの操作を覚えてしまった。僕の考えを先読みして動けるし、だからといって先走り過ぎもしない。弟といるのは楽だ。こんなに楽なら、ずっと、と思いかけて、僕は苦笑する。
 ずっと、は、ない。僕は大人になったのだから、ずっと家族と一緒にはいられない。誰かと一緒に居続けたら、現実の編集が甘くなる。
 録画ボタンを確かめてから、弟は僕に合図を出す。
 三、二、一、キュー。
「こんにちは、ガーデナーKです!」
 派手に顔筋を動かしてそこまで言い、脳内に次の台詞を探した。昨晩は大変でした、などと言ってはいけない。軽い気持ちでトラブルを愚痴って大炎上していく同業者は数多い。僕は彼ら、彼女らの仲間にはならない。まずは黙るのが大事だ。何もかもが極端に、きっぱりはっきりと、見間違いも言い間違いもないくらいの段階になるまで、黙る。
 あれからご近所さんがどうしたのか、そんなことも今考えることじゃない。今度庭に侵入されたら、きちんと常識的に対処して、結果が出てから動画にするかどうかを考える。そうやってきちんと決めておかないと、また弟がいきり立つ。
 そこまで考えたとき、視界の端で何かが動いた。
 人影だ、と気づいたときには、そいつは弟の脇をすり抜けていた。思いのほか素早い動きでレジャーシートに手を伸ばし、庭から掘り出されたもののひとつを掴む。
 皿だ。さっき飴を載せた皿。
 僕が、夏休みの供養のために用意した皿。
 思わず僕は前に出た。弟もほとんど同時に動く。
 弟は容赦なく、闖入者の腹につま先を叩きこんだ。そいつはか細い悲鳴を上げて、僕らが掘った穴の中に転がり落ちる。
 赤い色が目に刺さった。
 目がチカチカする、赤いワンピース。
 ご近所さんだった。
 赤いワンピースを着た老婆が、穴の中でぜえぜえと荒い息を吐く。そうなってまで、皿を胸に抱えている。弟はなんの慈悲も興味もない顔でご近所さんを見下ろした。
「そんなにそれが欲しかったんだ?」
「すみません、すみません」
 うわごとめいて繰り返しながら、ご近所さんは四つん這いで穴から逃げようと試みていた。
「謝ってるけど、盗んだもんは放さないじゃん」
 弟はあきれたように言い、穴の縁を悠々と歩いてご近所さんを追いかける。ご近所さんは必死に穴を上ってくる。改めてみるとずいぶんと大きな穴だ。人間も、四、五人埋められる広さと深さがある。
 ご近所さんが、すり鉢状の穴を上ってどうにか縁に片手をかける。弟はその手を丁寧に蹴りつけ、怪しい鳥の鳴き声のような悲鳴をあげさせた。ご近所さんは、土埃を上げて深さ二メートルはあろうかという穴の中央へずり落ちていく。
 僕はさすがに顔をしかめ、弟に言う。
「もうやめたら? そんな皿、ゴミだよ」
「ゴミじゃありません、ゴミじゃないんです!」
 答えたのはなぜか、ご近所さんだ。僕は鼻白み、弟は優しく小首をかしげて、歌うように言う。
「じゃあ、なぁに」
「息子の遺品です!」
「息子」
 弟は面白そうに笑い、僕のほうを見る。
「息子の遺品だって」
「笑うとこじゃないだろ」
 一応たしなめてみたものの、僕の思考は停止している。
 ご近所さんは弟を見上げ、必死に言いつのっていく。
「ごめんなさい、説明するのが難しくて、こんなことになってしまって、ごめんなさい。あのね、私の息子、もう生きてはいないの。大人になってから首をくくったの。何の悩みもないように見えていたのに、自分から死んでしまったの」
 荒々しく息継ぎをし、ご近所さんは強く皿を抱いた。皿が割れそうだな、と、僕は思い、ご近所さんは続ける。
「あの子は、私宛に遺書を遺したわ。そこにはあの子の苦しみが、いっぱい書いてあって。私の知らない苦しみが、たくさんあって。最後には、『やっぱりあのとき、本当は探して助ほしかったです』ってあったの」
 ご近所さんを見つめながら、僕は視界の端が徐々に暗くなっていくのを感じる。まだ夕暮れ時は始まったばかりだ。こんなに暗くなるはずがない。でも、暗い。
 視界の端。庭の木々が深く茂っているところが、暗い。
「最初、私には『あのとき』がどのときなのかわからなかった。わからない、わからないと思って、ぼんやり暮らしていたの。でも、あなたが掘り出したサンダルを見たとき、急にわかったの。『あのとき』は、あの夏なんだって」
 子どものサンダル。ゴミになったそれ。この庭からは死んだ夏休みが出てきた。それは、いつかの夏に、この庭で子どもが遊んだ証拠だ。
「この家を建てた方は、あなたと同じ独り者の男性でね。常々子どもが嫌いだと言っていたから、子どものものを持っているはずがないんです」
 子どものもの。この穴から出てきたのはすべて、子どもの。
 ビニールプール。サンダル。皿。下着。
「あれは、あの子が九歳の夏だったわ。あの子は友達の家に遊びに行くと言っては留守にしていた。おかしいと思ったこともあったの。友達の家の方と話が合わなかったりしてね。でも、私、あの子を追いかけなかったし、探さなかった。ちょうど忙しい年で、子どもがいないほうが楽だったから」
 視界の端。庭の端で、何かが動いている気がする。
 ご近所さんの話を聞いたあとなら、それがなんだかわかる。
 やっぱり、子どもは、いたのだ。
「あの夏、うちの子はこの庭にいたのね。全部終わったあと、証拠はみんな庭に埋められたのね。この家は庭がうっそうとしていて、中で何があってもわからなかった。あなたがこうして草を刈ってくれるまで、何も、わからなかった。何も。何十年も」
 まだ、いますよ。あなたの子どもは、ここにいます。
 あなたを待っていたんだと思います。
 それか、掘り返してもらえるのを。
 僕はそう言おうと思ったが、弟は笑って僕をみた。
「兄貴、こいつ、穴に埋めちゃおうよ」
「待てよ、どうしてそんな話になったんだ」
 驚いて弟をたしなめる。弟は右肩を上げて首を回す。
「だって、こんなオチじゃ動画にならないじゃん。絶対炎上しちゃうじゃん。そんなのダメだよ。この穴は兄貴の動画のために掘ったんだ。だから、余計なものは全部埋めよう」
「それはそうかもしれないけど」
 僕は眉根を寄せてためらった。確かに動画のことだけを考えるなら、ご近所さんは邪魔だ。この話は悲惨すぎるし、今後も動画撮影に割りこんだり、警察に飛びこんだり、騒ぎを大きくする予感しかない。とはいえご近所さんを埋めるのは論外だ。そう思ったとき、ご近所さんが再び穴の縁に手をかけ、さらに、弟のズボンの裾をつかんだ。
「うわ、気色わる」
 弟は軽い声で言い、ご近所さんの襟首をつかんで穴から引きずり上げた。そのまま庭の隅に放り投げると、老婆は勢いよく庭木の根にぶつかった。
 僕は叫ぶ。
「おい! だからやめろって!」
「穴からは出してやったよ。嫌なら逃げればいいだろ?」
 ひどい言い草だった。こちらが通報されても文句は言えない。なのにご近所さんは逃げない。地を這って弟ににじり寄り、必死の形相でズボンの裾をつかむ。
「聞いて、あなた。そっちの、怖いほうじゃない、あなた」
 何を言っているのかわからない。戯言を続けると弟がいきり立つ。今度こそ、ご近所さんを穴に埋めてしまうかもしれない。僕は半ば諦めながら主張する。
「黙ってください。弟は悪い奴じゃないんです。むしろ正義心が強いんだ。僕を守ろうとしてるんですよ。だから、逆なでしないでほしい。話を聞いて欲しいんです」
「あなた、まだそんなこと言ってるの」
 ご近所さんは弟を見上げて答える。
 どうして僕を見ないんだ、と思いながら、僕は言い返す。
「まだって、この話は初めてですよ。弟の正義感の話は」
「弟の話は、何度もしてるでしょう? いい? あなた、ずっと、ひとりよ。越してきた日から、ずっと。今も」
「は?」
「弟はいない」
 ご近所さんは言った。刻みつけるように。
 僕は、改めて彼女を見た。
 ご近所さんは片手で弟の裾にすがり、空いた片手でポケットからスマホを取り出して弟に差し出した。見慣れた動画配信アプリの画面だ。映し出されているのは僕のチャンネル。
「あなたのチャンネルでしょう? 初めて会った日にカメラに向かって名乗っていたから、検索したの」
「それ、俺のチャンネルじゃない。兄貴のだよ」
 つまらなさそうな弟を見守りながら、僕は彼女に問う。
「あなた、僕が引っ越して来た後に、初めて動画を見たってことですか? 元から僕の視聴者ではない?」
「ええ、そんなに動画を見るほうじゃないの。それとあなた、ご自分のチャンネルのコメント、全然読んでらっしゃらないでしょう?」
 ご近所さんは妙なことを言う。というか、さっきからずっと妙だ。弟は居ないと言ってみたり、元からの視聴者ではないと言ってみたり。さらには、コメントがどうだとか。
「最近は読めないから読んでないだけです。興味もないし、仕様も変わったでしょう? そんな、虫みたいにうぞうぞ動く文字が読めますか?」
「いつから? いつからコメントが読めなくなったの?」
「そんなことどうでもいいじゃないですか。そういう話はしてないんですよ、僕は」
 不愉快になってきて僕は吐き捨て、弟はファイティング・ポーズを取る。
「どう? 兄貴、やっちゃう? 埋めちゃう?」
「あなたが読めないんなら、代わりに読みましょうか。『相変わらず飛ばしてんな、こいつ』『こわっ、なんで当然のように庭木に赤ペンキ塗るの? なんで?』『このチャンネルはずいぶん前からホラー枠なんで、みんな落ち着いて見てってね!』『みなさんは何もわかっていないだけだと思います。私はKさんを信じています。赤ペンキはきっとアリスへのリスペクトがあるんだと思います』『赤ペンキ回へのリンクはこちら』」
 コメントを読み上げたのち、ご近所さんが弟にコメント欄をつきつける。僕の目の前ではスマホ上でうごめいていた文字の群れが徐々に整列を始め、一部だけ見慣れた日本語の文字になった。その文字は、こんなふうに読める。

『きたきた、弟回。Kちゃんいきなりアロハ着ちゃって弟設定、無理があるよね。どう見ても同一人物だっての』

 コメントを読んだ瞬間、僕のズボンに重みが生まれた。
 僕は自分の足下を見る。
 そこには土埃をかぶった老婆がいる。弟の裾を掴んでいたはずのご近所さん。ご近所さんが僕の裾を掴んで、僕にスマホを見せている。僕に。ご近所さんが。僕が。僕だけが。僕は、僕は、そう、僕は、そうだった、そうだ、そうだった、と気づく。僕は周囲を見渡す、庭には誰もいない、誰も。僕とご近所さんの老婆以外は誰もいない。ひょっとしたら、あちらの灌木が作った闇に子どもくらいは隠れているかもしれない、かつてこの庭で遊んだ、ご近所さんの子どもの残像みたいなものがあるのかもしれない。でも、僕の弟はいない。
 そうだった。弟は死んだのだった。五歳で。
 その後の弟は、僕が。
 いや、視聴者が、作り上げたのだ。
 思い出した。チャンネル設立初期のころ、まったく違うファッションで現れた僕を見た視聴者が『弟さんですか』とコメントしたせいで、僕は成長した弟を夢想したのだった。
 弟。僕の弟。
 弟は五歳のときに庭木に秘密基地を作った。
 彼は器用で、発想力があり、楽しくて、かわいくて、真面目さだけが欠けていた。当時から弟の持っているものを何ひとつ持たなかった僕だが、真面目さと空気を読む能力だけはそれなりだったのだろう。当時すさまじかった母親の鬱屈に当てられ、九歳にして頭痛、腹痛に悩まされ、休日でも遊びに出ず、勉強からも逃げて庭の隅にうずくまっていることが多かった。その日も痛みにうめきながら庭木の間にやっとのことで生えた雑草の花を愛でていると、高いところから弟の声がした。
『おい、そこの』
『そこのじゃないだろ、馬鹿』
『わはは。悪口しか言えないだなんて、情けない悪党だな』
 わざとらしい笑い声を聞くと、それだけで少し頭痛が和らいだ。僕は立ち上がって弟の姿を探す。
 弟は木の上にいた。よりによって母が丹精込めて世話している古木の上に、がらくたの板を並べてガムテープで留めただけの、ツリーハウスとも呼べない危うい足場を作っていたのだ。
 僕は焦った。
『降りてこい、馬鹿!』
『降りない。そっちが上がって来いよ』
 弟は歌うように言って僕を見下ろし、手を差し伸べてくれた。弟の後ろで太陽がぎらりと光って、僕はあまりのまぶしさに目を細めた。弟はまぶしい。おとなしい父親がふわりと家から消えてしまっても、母親がどんなに荒れていても、弟は負けない。どんな状況でも喜びを見つけてみせる。そして、僕に分け与えてくれる。
 鼻の奥がつんとして、涙があふれかけた。弟のいるところへ行きたいと思った。彼になりたいと思った。助けて欲しかった。
 僕は手を伸ばしかけたが、その前に家の窓が開いた。
『うるさいよ、二人とも! 静かに遊べって言ってんの!』
 母親のすさまじい怒鳴り声に、僕と弟は震え上がった。
 弟は居た場所が悪かった。バランスを失い、落ちたのだ。木の上から真っ逆さまに落っこちた。聞いたこともない嫌な音がして、母親はさらにわめいた。
『なんの音? おい、今、何した? 何壊したんだよ? お兄ちゃん、いるんでしょ? なんでちゃんとしないんだ!』
『大丈夫、どうにかするよ! 大丈夫、僕が、どうにか!』
 僕は怒鳴り、木の後ろへ回って弟の状態を確認した。弟は母が庭に設置した大きな石に頭を打って、ぴくぴく動いていた。頭は不思議な形に花開き、汚物が庭に飛び散っていた。母が愛した庭が、生臭い匂いと汚い色でけがされていた。
 僕は、頭の中がくちゃくちゃになるのを感じた。
 全身の毛穴が開き、鼓動が暴走し、呼吸が乱れる。はっ、はっ、はっ。どうしたらいい。はっ、はっ、はっ。どうすれば母さんは怒らない。はっ、はっ、はっ。
 とにかく母の怒りを逃れるのが肝要だった。僕は動転したままシャベルを手にして、死にかけた弟を埋めようとした、が、思い出した。土にはばい菌がいる。大好きな弟をばい菌まみれにするのは嫌だった。他の方法できれいにしなきゃ。きれいならいい。きれいなら怒られない。僕はシャベルを放り出し、ホースを引っ張り出して弟を洗った。きれいに、きれいに洗った。
 一時間後、できるかぎりきれいにした弟を見た母親は、すさまじい叫びをあげた。

「つらかったわね。苦しかったわね。でもね、大丈夫なのよ、きっと。傷ついて、傷ついて、そうやって人は生きるの」
 気づけば僕は穴の縁に座りこみ、ご近所さんに背中を撫でられていた。全身がひどく重くて、同時にふわついている。ぼんやりと視線をさまよわせてみれば、暗い自宅が目についた。
 いかにもボロい3DKだ。弟がつけてくれたお祭りみたいな明かりはどこにもない。濡れた新聞紙で磨いてくれたはずの窓ガラスは曇っている。仲良くなった自転車屋に直してもらったはずの自転車は、錆びきったまま玄関横に立てかけられている。ポストに突っ込まれたチラシは公道側にあふれていたし、弟が持ってきた足場板はどこにもない。
 弟は、立ち去ってしまった。
 正確に言えば、僕が作った弟の幻は、消えてしまった。
 ご近所づきあいしたくない僕を守るために出てきて、僕の生活のすべてを守って、そして、消えた。
 もう少し弟がここにいてくれたら、彼は木の上に足場を組んで、昔よりましなツリーハウスを作っただろう。そう思うと僕は、弟のために庭にこだわり続けているのかもしれなかった。いびつで気持ちの悪いものになってしまった記憶の中の庭を、どうにかして美しい記憶で上書きしたい。そんな思いで、庭を造り続けてきたのかもしれなかった。
「大切なのは、現実と向き合うこと。ゆっくりでいいのよ」
 老婆は当然のように言う。
 僕はわずかにいらだつ。
 現実と向き合って、何になる。
 弟の死んだ現実。まだ生きていたであろう弟を、僕が殺したという現実。母親が狂った現実。現実。現実。現実。現実そのままなんて、今時誰も求めてはいない。現代人が求めるのは編集された現実。
 つまり、動画だ。
 動画のことを思い出すと、僕の心は少々奮い立った。
 そうだ。僕はずっと、現実にあらがうために動画を作り続けてきたではないか。映画より、TVより身近な『動画』という存在は視聴者にとっては果てしなく現実に近いもので、それを編集することは現実を編集することに限りなく近い。
 つまり、僕が作った動画を世界中の人間が見たのなら、僕の動画は現実を超える。チャンネル登録者数七十七億で、この世のすべてがひっくり返る。
 現実が虚構になって。虚構が現実になって。
 そして、戻ってくる。弟だって。
 そうだ。それだ。
「実際、戻ってきたじゃないか」
「なんですって?」
 老婆の手を振り払って立ち上がり、僕はカメラへ歩み寄る。僕は動画で現実を編集することにより、年に一度は僕のところへ戻ってきてくれる『弟』を顕現させていた。
 他の人間がなんと言おうと、あれは僕にとっての現実だった。他人にたやすく覆されてしまうのは、僕の動画の力がまだ弱いからだ。七十七億に足りないからだ。僕の動画の力が極まっていけば、僕は世界を編集できる。僕は造れる。庭だけじゃない。動画だけじゃない。
 僕は、世界を造れる。
 造ろう。そのために続けよう。僕はカメラを自分に向けると、顔全体を使って派手に口角を上げる。動画用の笑顔だ。
「こんにちは、ガーデナーKです!」
「あなた、待って」
 誰かが僕の袖を掴もうとする。それは画面の外の出来事だ。だから、ない。きっぱりとカットする。
 勇気をもって――カット。
 はい、なくなった。
 袖が重いのはただの気のせい。現実じゃない。
 僕はカメラをのぞきこみながら笑う。笑っているうちになんだか明るい気分になってきた。そうだ、動画の中の僕はいつだって明るい。朗らかに笑って、僕は思い切って歩き出した。まとわりつく重みを振り切って、歩く、歩く。そうして、自分の背景に、家を映す。
 腹に力をこめて、僕はカメラの液晶をのぞきこんだ。
 僕の背景に映る家は。
 僕の家は、光っていた。無数の電球で、お祭りみたいに照らされていた。やった。そうだ。こっちだ。こっちが僕の現実だ。ぼろからレトロに格上げされた家。外壁もラフに塗り直されて、アンティークの玄関灯がついていて、弟が好きな色に塗装された中古自転車が立てかけてある。
 編集しろ。造れ。ひっくり返せ。
「いきなりですが、今日は僕の家をご紹介しようと思います。僕ももうすぐ三十ですからね。地に足着ける意味でも、家ってものを大事にしたい。ということで今後はこのチャンネル、DIY担当のメンバーと一緒にやっていくことになりました!」
 喋り終えると、僕はカメラを家の玄関に向ける。
 荒れた庭と大穴が画面の外に消える。なかったことになる。すると、家を囲む電球はますます強く輝き始めた。まるでクリスマスツリーみたいだ。
 晴れがましい家から、やがて優しい音がする。ドアノブが回った音だ。扉が開く。内側から開く。暖色の光がこぼれだしてくる。美味しそうな匂いと、心地よい音楽が漏れ出してくる。

 この世の善きもの、すべて。
 僕の欲しいもの、すべて。
 庭がぶちこわしたもの、すべて。
 何もかもが、この家の中にある。

 大丈夫だ、これからは全部よくなる。確信とともになぜだか鼻の奥がつんとして、僕は泣いた。

サポートは投げ銭だと思ってください。note面白かったよ、でも、今後も作家活動頑張れよ、でも、なんとなく投げたいから、でも。お気持ちはモチベーションアップに繋がります。