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尊重と尊厳・子育てにおいても必要なのか

私には高齢出産をして授かった12歳の息子がいます。異国での初めての育児、さらに昨年からは仏人主人が2年の海外赴任に出発してしまい現在シングルマザーを体験中。とにかく子供と沢山の時間を共有したくて小学校を卒業するまではずっとずーっと一緒に過ごしていました。昨年から中学に上がり(フランスの教育は小学校5年間、中学校4年間、高校3年間)お友達との時間がどんどん増えてきて、そちらの方がはるかに楽しいに違いないので私も子供が友達と遊びたいという際にはほぼ承諾しています。

とはいえ友達と遊ぶ、と言っても昔のように外遊びするわけではなくもっぱらゲーム。いや、思い返したら「もっぱら」ではない、「いつも」ゲーム!Switchで遊ぶこともあれば携帯でオンラインゲームを背中をめちゃくちゃ猫背にして目を画面に10cm近くにまで近づけて楽しそうに友達と携帯も繋げて喋りながら遊んでいる。そんな姿を見ると私は『もっと目を離して遊んで!』『背筋をまっすぐにして!』と、ついついお小言を放ってはこちらの気分が悪くなり、、、イライラ。

先日ちょうどそんなご機嫌悪くなっているタイミングに日本にいる友達と電話でお喋りが出来ました。彼女にその時の自分の気持ちをブツブツ伝えていたら彼女曰く、『どんな人間に対しても相手を支配せずにその人に対して尊重と尊厳を持つとイライラは減ると私は思うんだよね』とポツリ。要は自分ではない「他人」という存在に対してはこちら側の意思でコントロールせず、ありのままを尊重して受け入れると自分はイライラしない。うん、確かにそうだよね。。。
彼女は勤めていた会社でセクハラに遭い鬱になり、労災か何かの補償金(給付金?)をもらって現在は無職で生活している子。そんな彼女に言わせると例えばホームレスの人が道で座っていてもそれはその人の責任でありその人の人生、そこに自分が関わる必要はないのでそのまま放置する、のがその人の存在に対する「尊重」であり、余計な心配や不安ごとはあえて自分に持ち込まない。このモットーを導入してから自分の周囲はとても軽くなったと話してくれた上での私への呟きでした。

辛い経験をした彼女ならではの人間社会における処世術だと思いました。

アドラー心理学における「課題の分離」でもあるのかな。確かに人間の大半の悩みや不安、心配って対人関係から発生しているもの。悩み事って何かしらの対象者・物がある事でほぼ発生する。でもそれって本当に私が今現時点で考えないといけない事なのかな?と突き詰めて考えると大抵の物事は「否」、であり、杞憂である事が多い。だって心配事の9割(91.4%らしい)は起こらないんだよね?

でもさ。

それって育児でも採用して良いものなのだろうか。もちろん我が子には産まれてきたからには楽しい時間を沢山味わって欲しいし人生を謳歌してもらいたい。だから子供が楽しい時間を過ごしているならそのまま楽しんでいてもらいたい(=尊重)。とはいえ、自分の「好き」だけをやっていくのでは伸びしろを狭めてないか?せっかく産まれてきたんだから世の中のいろーんな事に視野を広げてみようよ、多種多様な物事を見聞きして体験したりしていくうちに新しい興味もどんどん湧いてきたりするし自分の可能性が広がっていくものではないのかな。行動範囲を自分が好きなことだけに限定せずに敢えて新しい事にも踏み出してみることで出会う人が刺激的で人生のメンターになることもある。そしてそういう機会を与えられるのは親である私であり親の責任でもあるんではないかと思ってる、、、
でもこういう私の思いは「私」の思いでしかなく子供本人のものでは決してない、だからこの気持ちは私が彼の人生を私なりの視点で「支配」しようとしてる事になるのだろうか。

子育てに正解はない、とは今更ながらに素晴らしい文言。でもついつい「正解」や「良かれ」を探して右往左往してしまう親心の悶々をツラツラ書いてみました。
これを読まれた方で育児についての強い信念がおありの方やアドバイスなどある方いらっしゃいましたらどうぞお気軽にコメントで私にご教示くださいませ!





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